助へ云うというより、自分自身へ云うように、譫言《うわごと》のように呟いた。
「陣十郎、水品陣十郎……何と云おう、悪鬼と云おうか……あの男のためにまア妾《わたし》は……これまでどんなに、まあどんなに……苦しめられ苦しめられたことか! ……騙《だま》され賺《す》かされ怯《おび》やかされ、旅でさんざん苦しめられた。……こんなにしたのはあの男だ。妾をこんなに、こんなにしたのは! ……病人に、白痴に、片輪者に! ……先生、お助け下さりませ! ……でも妾はどうあろうと、あれをどうともして思い出さなけりゃア……でもお許し下さりませ、思い出せないのでございます」
 不意に源女は節をつけて、歌うように云い出した。
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「ちちぶのこおり
おがわむら
へみさまにわの
ひのきのね
むかしはあったということじゃ
いまはかわってせんのうま
ごひゃくのうまのうまかいの
、、、、
、、、、
、、、、
まぐさのやまや
そこなしの
かわのなかじのいわむろの
[#ここで字下げ終わり]
 ……さあその後は何といったかしら? ……思い出せない思い出せない。……そうしてあそこはどこだったかしら? ……山に谷に森に林に、岩屋に盆地に沼に川に、そうして滝があったかもしれない。
 大きなお屋敷もあったはずだが。……そうしてまるで酒顛童子《しゅてんどうじ》のような、恐ろしいお爺さんがいたはずだが。……思い出せない、思い出せない。……」
 顔を上向け宙へ眼をやり、額に汗をにじませて、何か思い出を辿るように、何かを思い出そうとするように、源女は譫言《うわごと》のように云うのであった。
 癲癇の発作の起こる前の、痴呆状態とでも云うべきであろうか、そういう源女の顔も姿も、いつもとは異《ちが》って別人のように見えた。
 浪之助は魘《おそ》われたようにゾッとした。
 と、不意に前のめりに、源女は畳へ突っ伏した。
 精根をすっかり疲労《つかれ》させられたらしい。
「お組」と仰天していざり寄り浪之助は抱き起こした。
「しっかりおし、心をたしかに!」
 その時背後から声がかかった。
「源女殿いつもの病気でござるか」
 驚いて浪之助は振り返って見た。
 いつ来たものか三十五六の武士が、眉をひそめながら立っていた。


 額広く眉太く、眼は鳳眼《ほうがん》といって気高く鋭く、それでいて愛嬌があり、鼻はあくまで高かったが、鼻梁が太いので険しくなく、仁中《じんちゅう》の深いのは徳のある証拠、唇は薄くなく厚くない。程よいけれど、大形であった。色が白く頬が豊かで、顎も角ばらず円味づいていた。身長は五尺五六寸もあろうか、肉付は逞《たくま》しくあったけれど贅肉なしに引きしまっている。髪は総髪の大髻《おおたぶさ》で、髻《もとどり》の紐は濃紫《こむらさき》であった。黒の紋付に同じ羽織、白博多の帯をしめ、無反《むぞり》に近い長めの大小の、柄を白糸で巻いたのを差し、わざと袴をつけていないのは、無造作で磊落で瀟洒の性質をさながらに現わしていると云ってよろしく白博多の帯と映り合って、羽織の紐が髻と同じ、濃紫であるのは高尚であった。
 そういう武士が立っていた。
 と見てとって浪之助は、思わず「あッ」と声を上げ、抱えていた源女を放したかと思うと、四五尺がところ後へ辷《すべ》り、膝へ手を置いてかしこまってしまった。
 武士の何者かを知っているからであった。
 川越の城主三十五万石、松平大和守の家臣であって、知行は堂々たる五百石、新影流の剣道指南、秋山要左衛門の子息であり、侠骨凌々たるところから、博徒赤尾の磯五郎を助け、縄張出入などに関係したあげく、わざと勘当されて浪人となり、江戸へいでて技を磨き、根岸|御行《みゆき》の松に道場を設け、新影流を教授して居り、年齢は男盛りの三十五、それでいて新影流は無双の達人、神刀無念流の戸ヶ崎熊太郎や、甲源一刀流の辺見《へんみ》多四郎や、小野派一刀流の浅利又七郎や、北辰一刀流の千葉周作等、前後して輩出した名人達と、伯仲《はくちゅう》[#ルビの「はくちゅう」は底本では「はちゅう」]の間にあったという、そういう達人の秋山要介正勝《あきやまようすけまさかつ》! 武士は実にその人なのであった。
 勿論浪之助はかつてこれ迄、秋山要介と話したこともなく、教えを受けたこともなかったのであるが、それほどの高名の剣豪であった、江戸に住居する武士という武士は、要介を知らない者はなく、そういう意味で、浪之助も、諸方で遥拝して知っていたのであった。
 そういう要介が現われたのである、かしこまったのは当然といえよう。
 かしこまった浪之助の様子を見ると、要介はかえって気の毒そうに、微笑を浮かべ会釈をしたが、さりとて別に何とも云わず、仆《たお》れている源女へ近寄って行き、片膝つくと手を延ばし、源女の背
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