うさ》の国、佐倉の郷士、伊東忠右衛門の忰《せがれ》であった。伊東の家柄は、足利時代に、下総、常陸《ひたち》等を領していた、管領千葉家の重臣の遺流《ながれ》だったので、現在《いま》の領主、堀田備中守《ほったびっちゅうのかみ》も粗末に出来ず、客分の扱いをしていた。しかるに、同一《おなじ》家柄の郷士に、五味左衛門という者があり、忠右衛門と不和であった。理由は、二人ながら、国学者で、尊王家であったが、忠右衛門は、本居宣長の流れを汲む者であり、左衛門は、平田|篤胤《あつたね》の門下をもって任じている者であり、二人ながら
「大日本は神国なり。天祖始めて基《もと》いを開き、日神長く統を伝え給う。我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。このゆえに神国というなり」という、日本の国体に関する根本思想については、全然同一意見であったが、その他の、学問上の、瑣末の解釈については、意見を異にし、互いに詈言《そしりあ》い、不和となったのであった。もちろん、性格の相違もその因をなしていた。忠右衛門は、穏和で寛宏であったが、左衛門は精悍《せいかん》で狷介《けんかい》であった。
敵討ちの原因
ところが、
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