りまする。……では何んとかして、あの天国様を。……おおちょうど幸い、五郎蔵親分には、あの天国様を、賭場へ行く時には賭場へ持って行き、宿へ帰る時には宿へ持って帰りまする。……今夜妾がこっそり持ち出し、あなた様のお部屋へ……」
「頼む」
「お部屋は?」
「中庭の離座敷《はなれ》」
「お名前は?」
「伊東頼母」
「お顔拝見しておかねば……」
頼母は、そこで編笠を脱いだ。
お浦はその顔を隙《す》かして見たが、「まあ」と感嘆の声を上げた。「ご縹緻《きりょう》よしな! ……お前髪立ちで! 歌舞伎若衆といおうか、お寺お小姓と云おうか! 何んとまアお美しい!」
見とれて、恍惚《うっとり》となったが、
「女冥利、妾アどうあろうと……」
と、よろめくように前へ出た。
若衆形吉沢あやめに似ていると囃された、無双の美貌の頼母が、月下に立った姿は、まこと舞台から脱《ぬ》け出した芝居の人物かのようで、色ごのみの年増女などは、魂を宙に飛ばすであろうと思われた。前髪のほつれが、眉のあたりへかかり、ポッと開けた唇から、揃った前歯が、つつましく覗いている様子など、女の子よりも艶《なまめ》かしかった。
「天国様は愚か、妾ア……」
と、寄り添おうとするのを、
「今夜、何時に?」
と、頼母は、お浦を押しやった。
「あい、どうせ五郎蔵親分が眠ってから……子《ね》の刻頃……」
「間違いござるまいな」
「何んの間違いなど。……あなた様こそ間違いなく……」
「お待ちしましょう」
と、云い棄て、頼母は歩き出した。お浦は、その背後《うしろ》姿を、なお恍惚とした眼付きで見送ったが、
(妾ア、生き甲斐を覚えて来たよ)
紙帳の中
この夜が更けて、子の刻になった時、府中の旅籠屋、武蔵屋は寝静まっていた。
と、お浦の姿が、そこの廊下へ現われた。廊下の片側は、並べて作ってある部屋部屋で、襖によって閉ざされていたが、反対側は中庭で、月光が、霜でも敷いたかのように、地上を明るく染めていた。質朴な土地柄からか、雨戸などは立ててない。お浦は廊下を、足音を忍ばせて歩いて行った。廊下が左へ曲がった外れに、離座敷《はなれ》が立っていた。藁葺《わらぶ》き屋根の、部屋数三間ほどの、古びた建物で、静けさを好む客などのために建てたものらしかった。離座敷は、月に背中を向けていたので、中庭を距てた、こっちの廊下から眺めると、
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