血曼陀羅紙帳武士
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)朧《おぼ》ろに
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伊東|頼母《たのも》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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腰の物拝見
「お武家お待ち」
という声が聞こえたので、伊東|頼母《たのも》は足を止めた。ここは甲州街道の府中から、一里ほど離れた野原で、天保××年三月十六日の月が、朧《おぼ》ろに照らしていた。頼母は、江戸へ行くつもりで、街道筋を辿《たど》って来たのであったが、いつどこで道を間違えたものか、こんなところへ来てしまったのであった。声は林の中から来た。頼母はそっちへ眼をやった。林の中に、白い方形の物が釣ってあった。紙帳《しちょう》らしい。暗い林の中に、仄白く、紙帳が釣ってある様子は、巨大な炭壺の中に、豆腐でも置いたようであった。声は紙帳の中から来たようであった。
塚原卜伝が武者修行の際、山野に野宿する時、紙帳を釣って寝たということなどを、頼母は聞いていたので、林に紙帳の釣ってあることについては、驚かなかったものの、突然、横柄な声で呼び止められたのには、驚きもし腹も立てた。それで黙っていた。すると、紙帳の裾が揺れ、すぐに一人の武士が、姿を現わした。武士の身長《たけ》が高いので、紙帳を背後《うしろ》にして立った形《すがた》は「中」という字に似ていた。
「お腰の物拝見出来ますまいかな」と、その武士は、頭巾で顔を包んだままで云った。
「黙らっしゃい」と頼母は、とうとう癇癪を破裂させて叫んだ。
「突然呼び止めるさえあるに、腰の物を見せろとは何んだ! 成らぬ!」
「そう仰せられずに、お見せくだされ。相当の物をお差しでござろう」
「黙れ! 無礼な奴、ははア、貴様、追い剥ぎだな。腰の物拝見などと申し、近寄り、懐中物を奪うつもりであろう。ぶった斬るぞ!」
「賊ではござらぬ。ちと必要あって腰の物拝見したいのじゃ。何をお差しかな。まさか天国《あまくに》はお差しではござるまいが」
「ナニ、天国? あッはッはッ、何を申す、馬鹿な。天国や天座《あまのざ》など、伝説中の人物、さような刀鍛冶など、存在したことござらぬ。鍛えた刀など
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