屋根も、縁側も、襖も、一様に黒かった。お浦は、そこの一間に、自分を待っている美しい若衆武士のことを思うと、胸がワクワクするのであった。(早くこの天国様をお目にかけて、その代りに……)と、濃情のこの女は、刀箱を抱えていた。
 やがて、離座敷の縁側まで来た。お浦は、年にも、茶屋女という身分にも似ず、闇の中で顔を赧らめながら、部屋の襖をあけ、人に見られまいと、いそいで閉め、
「もし。……参りましたよ」
 と虚《うつろ》のような声で云い、燈火《ともしび》のない部屋を見廻した。と、闇の中に、仄白く、方形の物が懸かっていた。
(おや?)とお浦は近寄って行った。紙帳であった。(ま、どうしよう、部屋を間違えたんだよ)
 と、あわてて出ようとした時、紙帳の裾から、白い、細い手が出て……、
「あれ!」
 しかし、お浦は、紙帳の中へ引き込まれた。
 附近《ちかく》の農家で飼っていると見え、家鶏《にわとり》の啼き声が聞こえて来た。
 部屋の中も、紙帳の中も静かであった。
 紙帳は、闇の中に、経帷子《きょうかたびら》のように、気味悪く、薄白く、じっと垂れている。
 家鶏《とり》の啼いた方角から、今度は、犬の吠え声が聞こえて来た。祭礼の夜である、夜盗などの彷徨《さまよ》う筈はない、参詣帰りの人が、遅く、その辺を通るからであろう。
 やがて、燧石《いし》を切る音が、紙帳の中から聞こえて来、すぐにボッと薄黄いろい燈火《ひのひかり》が、紙帳の内側から射して来た。
 さてここは紙帳の内部《なか》である。――
 唐草の三揃いの寝具に埋もれて、お浦が寝ていた。夜具の襟が、頤の下まで掛かってい、濃化粧をしている彼女の顔が、人形の首かのように、浮き上がって見えていた。眼は細く開いていて、瞳が上瞼《うわまぶた》に隠され、白眼ばかりが、水気を帯びた剃刀《かみそり》の刀身《み》かのように、凄く鋭く輝いて見えた。呼吸をしている証拠として、額から、高い鼻の脇を通って、頬にかかっている後《おく》れ毛が、揺れていた。しかし尋常の睡眠《ねむり》とは思われなかった。気を失っているのらしい。
 そのお浦の横に、夜具から離れ、畳の上に、膝を揃え、端然と、五味左門が坐っていた。
 ふと手を上げて鬢《びん》の毛を撫でたが、その手を下ろすと、ゆるやかに胸へ組み、
「蜘蛛《くも》はただ網を張っているだけだ」と、呟いた。
「その網へかかる蝶
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