ね」
 と、お浦は、構えていた匕首を下ろし、
「見|遁《の》がしてくれるのね」
「殺して至当の悪漢じゃ」
「ご存知?」
「賭場で見ていた」
「まあ」

    お浦の恋情

「昼の間、五郎蔵殿の賭場へ参った者じゃ」
「あれ、それじゃア、まんざら見ず知らずの仲じゃアないのね」
「それに、同宿の誼《よし》みもある」
「同宿?」
「拙者は、府中の武蔵屋に泊まっておる」
 編笠の武士、すなわち、伊東頼母は、そう、今日、府中へ来ると、五郎蔵一家が、武蔵屋へ宿を取っていると聞き、近寄る便宜にもと、同じ旅籠《はたご》へ投じたのであった。しかるに、五郎蔵はじめその一家が、もう賭場へ出張ったと聞き、自分も賭場へ出かけて行ったのであった。
「まあ。武蔵屋に。それはそれは。妾も、武蔵屋の婢女《おんな》でござんす」
「賭場で、典膳という奴、五郎蔵殿へ因縁つけたのを見ていた。殺されても仕方ない」
「それで安心。……妾アどうなることかと。……でも、芳志《こころざし》には芳志を。……失礼ながら旅用の足《た》しに……」
 と、お浦が、胴巻の口へ手を入れたのを、頼母は制し、
「他に頼みがござる」
「他に……」お浦は、意外に思ったか、首を傾《かし》げたが、何か思いあたったと見え、やがて、月光の中で、唇をゆがめ、酸味《すみ》ある笑い方をしたかと思うと、「弱いところを握られた女へ、金の他に頼みといっては、さあ、ホッ、ホッ」
「誤解しては困る」
 と、頼母は、少し周章《あわ》てた。しかし厳粛の声で、「不躾《ぶしつ》けの依頼をするのではない」
「では……」
「賭場に神棚がありましたのう」
「ようご存知」
「ご神体は?」
「はい、天国とやらいう刀……」
「天国※[#感嘆符疑問符、1−8−78] おお、やっぱり! ……お浦殿、その天国を拝見したいのじゃが」
「天国様を? ……異《い》なお頼み。……何んで?」
「拙者は武士、武士は不断に、名刀を恋うるもの。天国は、天下の名器、至宝中の至宝、武士冥利、一度手に取って親しく」
「なるほどねえ、さようでございますか。……いえ、さようでございましょうとも、女の身の妾などにしてからが、江戸におりました頃、歌舞伎を見物《み》、水の垂れそうに美しい、吉沢あやめの、若衆姿など眼に入れますと、一生に一度は、ああいう役者衆と、一つ座敷で、盃のやり取りしたいなどと。……同じ心持ち、よう解
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