去年の春のことであったが、忠右衛門と左衛門とは、備中守殿によって、観桜の宴に招かれた。その席で二人の者は、国学の話については、遠慮し、大事を取り、云い争わなかったが、刀剣の話になった時、とうとう云い争いをはじめてしまった。忠右衛門が、天国《あまくに》という古代の刀工などは、事実は存在しなかったもので、したがって鍛えた刀などはないと云ったのに対し、左衛門は、いや天国は決して伝説中の人物ではなく、実在した人物であり、その鍛えた刀も残っておる、平家の重宝|小烏丸《こがらすまる》などはそれであり、我が家にもかつて一振り保存したことがあったと主張し、激論の果て、左衛門は「水掛け論は無用、この上は貴殿と拙者、この場において試合をし、勝った方の説を、正論と致そう」と、その精悍の気象から暴論を持ち掛けた。忠右衛門は迷惑とは思ったが、引くに引かれず承知をし、試合をしたところ、剣技《うで》は左衛門の方が上ではあったが、長年肺を患《わずら》っていて、寒気を厭《いと》い、紙帳の中で生活しているという身の上で、体力において忠右衛門の敵でなく、忠右衛門のために打ち挫《ひし》がれ、自分から仕掛けた試合に負け、これを悲憤し、自宅へ帰るや、紙帳の中で屠腹《とふく》し、腸を紙帳へ叩き付けて死んだ。しかるに左衛門には、左門という忰があって、「父上を自害させたのは忠右衛門である」と云い、遊学先の江戸から馳せ帰り、一夜、忠右衛門を往来《みち》に要して討ち取り、行衛《ゆくえ》を眩《くら》ました。こうなってみると、伊東家においても、安閑としてはいられなくなり、
「頼母、そち、左門を探し出し、討って取り、父上の妄執を晴らせ」
ということになり、さてこそ頼母は、復讐の旅へ出たのであったが、困ったことには、彼は討って取るべき、左門という人間を知らなかった。と云うのは、この時代の風習として、家庭《いえ》にいないで、江戸へ出、学問に精進していたからである。そう、頼母も左門も、幼少の頃から江戸に遊学し、頼母は、宣長の門人伴信友の門に入り、国学を修め、左門は、平田塾に入って、同じく国学を究める傍《かたわ》ら、戸ヶ崎熊太郎の道場に通い、神道無念流を学び、二人は互いにその面影を知らないのであった。
キリキリという、轍の軋るような音を聞き、頼母は、枕から顔を放し、耳を聳《そばだ》てた。
(何んの音だろう?)
音は、中庭まで来
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