片足を股から斬り取られ、四つ這いになって、廊下を這い廻っている武士の口から迸《ほとばし》った。紙帳の中はひっそりとしていた。
こういう間も、キリキリという、轍《わだち》でも軋るような音は、屋敷の周囲《まわり》を巡って、中庭の方へ移って行った。
(何んの音だろう?)と、四人の浪人が不審を打ったように、その音に不審を打ったのは、中庭に近い部屋に寝ていた、伊東|頼母《たのも》であった。
頼母は、この屋敷へ来るや、まず朝飯のご馳走になった。給仕をしてくれた娘の口から聞いたことは、この屋敷が、飯塚薪左衛門という郷士の屋敷であることや、娘は、その薪左衛門の一人娘で、栞《しおり》という名だということや、今、この屋敷には、頼母の他に五人の浪人が泊まっているということや、父、薪左衛門は、都合があって、どなたにもお眼にかかれないが、皆様がお泊まりくだされたことを、大変喜んでいるということなどであった。
「どうぞ、幾日でもご逗留くださりませ」と栞は附け加えた。
頼母は、忝けなく礼を云ったが、こんな不思議な厚遇を受けたことは、復讐の旅へ出て一年になるが、かつて一度もなかったと思った。
彼は下総《しもうさ》の国、佐倉の郷士、伊東忠右衛門の忰《せがれ》であった。伊東の家柄は、足利時代に、下総、常陸《ひたち》等を領していた、管領千葉家の重臣の遺流《ながれ》だったので、現在《いま》の領主、堀田備中守《ほったびっちゅうのかみ》も粗末に出来ず、客分の扱いをしていた。しかるに、同一《おなじ》家柄の郷士に、五味左衛門という者があり、忠右衛門と不和であった。理由は、二人ながら、国学者で、尊王家であったが、忠右衛門は、本居宣長の流れを汲む者であり、左衛門は、平田|篤胤《あつたね》の門下をもって任じている者であり、二人ながら
「大日本は神国なり。天祖始めて基《もと》いを開き、日神長く統を伝え給う。我が国のみこの事あり。異朝にはその類なし。このゆえに神国というなり」という、日本の国体に関する根本思想については、全然同一意見であったが、その他の、学問上の、瑣末の解釈については、意見を異にし、互いに詈言《そしりあ》い、不和となったのであった。もちろん、性格の相違もその因をなしていた。忠右衛門は、穏和で寛宏であったが、左衛門は精悍《せいかん》で狷介《けんかい》であった。
敵討ちの原因
ところが、
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