は他に行くところはない。わたしも秩父へ行くことにしよう)
お八重はこう悲しく心に決めて、彼らと一緒に歩いているのであった。
(主税様はどこにどうしておられるやら。……)
思われるのは恋人のことであった。
ほとんど江戸中残るところなく、主税の行方を探したのであったが、けっきょく知ることが出来なかった。
秩父山中へ行ってしまったら、――又、江戸へでる機会はあるにしても、秩父山中にいる間は、主税を探すことは出来ないわけであって、探すことさえ出来ないのであるから、まして逢うことは絶対に出来ない。
このことが彼女には悲しいのであった。
(いっそ江戸へ残ろうかしら?)
でも一人江戸へ残ったところで、生活《くら》して行くことは出来そうもなかった。
奉公をすれば奉公先の屋敷へ、体をしばられなければならないし、と云ってまさかに門付などになって、人の家の門へなどは立てそうもなかった。
(わたしには主税様は諦められない)
月光が霜のように地面を明るめ、彼女の影や植木師たちの影を、長く細く曳いていた。
荏原屋敷の土塀に添って、なお一行は歩いていた。
と、土塀を抜きん出て、植込がこんもり茂っていたが、その植込の葉の陰から、何物か躍り出して宙を飛び、お八重の肩へ飛び移った。
「あれッ」とさすがに驚いて、お八重は悲鳴をあげ飛び上ったが、そのお八重の足許の地面へ、お八重の肩から飛び下りた物が、赤いちゃんちゃんこ[#「ちゃんちゃんこ」に傍点]を着た小猿だったので、お八重は驚きを繰り返して叫んだ。
「まア、お前は藤八じゃアないかえ!」
さよう、それはお葉の飼猿、お八重もよく知っている藤八猿であった。
奇怪な邂逅
藤八猿が居るからには、持主のお葉がいなければならない。――とお八重はそう思った。お葉に逢って訊ねたならば、恋人主税のその後の消息《ようす》を、耳にすることが出来るかもしれない。――
(このお屋敷の土塀を越して、藤八猿は来たはずだった!)
裾にまつわる藤八猿を、自由に裾にまつわらせながら、お八重は荏原屋敷の土塀を見上げた。土塀を高くぬきん出て、繁った植込の枝や葉が建物の姿を隠している。
(人声や物音がするようだが?)
(何か間違いでも起こったのかしら?)
(それとも妾《わたし》の空耳かしら?)
なおもお八重は聞き澄ました。物音は間断なく聞こえてくる。
主税
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