れずに寄って来ていたので、普通より倍ほどの大きさに見えた。
「情無しのお方! 情知らずのお方!」
椿の花のような唇が開いて、雌蕊のような前歯が現われたかと思うと、咽ぶような訴えるような、あやめ[#「あやめ」に傍点]の声がそう云った。
「松浦|頼母《たのも》の屋敷を遁れ、ここに共住みいたしてからも、時たま話す話といえば、お八重様とやらいうお腰元衆の噂、そうでなければ淀屋の独楽を、日がな一日お廻しなされて、文字が出るの出ないのと……お側《そば》に居る妾などへは眼もくれず、……ご一緒にこそ住んで居れ、夫婦でもなければ恋人でも……それにいたしても妾の心は、貴郎《あなた》さまにはご存知のはず……一度ぐらいは可愛そうなと。……お思いなすって下さいましても……」
高い長い鼻筋の横を、涙の紐が伝わった。
「ねえ主税さま」とあやめ[#「あやめ」に傍点]は云って、介《かか》えている手へ力を入れた。
「こう貴郎さまの身近くに寄って、貴郎さまを見下ろすのは、これで二度目でございますわねえ。一度はお茶ノ水の夜の林で、覚兵衛たちに襲われて、貴郎さまがお怪我をなさいました時。……あの時妾は心のたけ[#「たけ」に傍点]を、はじめてお打ち明けいたしましたわねえ……そうして今日は心の怨みを! ……でも、この次には、三度目には? ……いえいえ三度目こそは妾の方が、貴郎さまに介抱されて……それこそ本望! 女の本望! ……」
涙が主税の顔へ落ちた。しかし主税は眼を閉じていた。
(無理はない)と彼は思った。
(たとえば蛇の生殺しのような、そんな境遇に置いているのだからなあ)
一月前のことである、松浦頼母の屋敷の乱闘で、云いかわしたお八重とは別れ別れとなった。あやめ[#「あやめ」に傍点]の妹だという女猿廻しの、お葉という娘とも別れ別れとなった。殺されたか捕らえられたか、それともうまく遁れることが出来て、どこかに安全に住んでいるか? それさえいまだに不明であった。
三下悪党
主税《ちから》とあやめ[#「あやめ」に傍点]ばかりは幸福《しあわせ》にも、二人連れ立って遁れることが出来た。
しかし主税は田安家お長屋へ、帰って行くことは出来なかった。いずれ頼母《たのも》があの夜の中に、田安中納言様へ自分のことを、お八重《やえ》を奪って逃げた不所存者、お館を騒がした狼藉者として、讒誣《ざんぶ》中傷したこ
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