間の道をお話しして……いや待てよ、一人だけ、邪悪《よこしま》の人間がいるようだ。死にかわり生きかわり執念深く、人に禍いをする悪人がいる。――こういう悪人へ道を説いても駄目だ。説かれた道を悪用して、一層人間に禍いする! こういう悪人へ制裁を加え、懲すのがわしの務めなのじゃ……」
 突然高く自然木の杖が、夕顔の花と向かい合い、夕焼の空へかざされた。そうしてその杖が横へ流れた途端、夕顔の蔓の一所が折れ、夕顔の花が人間の顔のように、グッタリと垂れて宙に下った。
 同時に獣の悲鳴のような声が、たかっている人達の間から起こり、すぐに乾いている野道から、パッと塵埃《ほこり》が立ち上った。
 見れば一人の人間が、首根ッ子を両手で抑え、野道の上を、塵埃の中を、転げ廻りノタウッている。
 意外にもそれは勘兵衛であった。二度までも浪速あやめ[#「あやめ」に傍点]によって、締め殺されたはずの勘兵衛であった。

   怨める美女

 その距離が遠かったので、縁に立って見ているあやめ[#「あやめ」に傍点]の眼には、こういう異変《かわ》った出来事も、人だかりが散ったり寄ったりしていると、そんなようにしか見えなかった。
 あやめ[#「あやめ」に傍点]は座敷へ引き返し、間《あい》の襖《ふすま》の前に立ち、そっとその襖を引き開けた。
 山岸主税《やまぎしちから》がこっちへ背を向け、首を垂れて襟足を見せ、端然として坐ってい、その彼の膝のすこし向うの、少し古びた畳の上で、淀屋の独楽が静かに廻っていた。また何か文字でも現われまいかと、今日も熱心に淀屋の独楽を、彼は廻しているのであった。
「あッ!」と主税は思わず叫んだ。
「何をなさる、これは乱暴!」
 でももうその時には主税の体は、背後《うしろ》からあやめの手によって、横倒しに倒されていた。
「悪|巫山戯《ふざけ》もいい加減になされ。人が見ましたら笑うでござろう」
 主税は寝たままで顔を上げて見た。すぐ眼の上にあるものといえば、衣裳を通して窺われる、ふっくりとしたあやめ[#「あやめ」に傍点]の胸と、紫の艶めかしい半襟と、それを抜いて延びている滑らかな咽喉と、俯向けている顔とであった。
 その顔の何と異様なことは! 眼には涙が溜まり唇は震え、頬の色は蒼褪め果て、まるで全体が怨みと悲しみとで、塗り潰されているようであった。そうしてその顔は主税の眼に近く、五寸と離
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