とであろう。そんなところへうかうか帰って行って、頼母の奸悪を申し立てたところで、信じられようはずはない。切腹かそれとも打ち首にされよう。これは分かりきった話であった。
そこで主税は自然の成り行きとして、浪人の身の上になってしまった。そうしてこれも自然の成り行きとして、あやめ[#「あやめ」に傍点]と一緒に住むようになった。
「おりを見て荏原《えばら》屋敷へ忍び入り、お実父《とう》様の敵《かたき》を討たなければ……」
あやめ[#「あやめ」に傍点]としてはこういう心持から、又、一方主税としては、「淀屋の財宝と荏原屋敷とは、深い関係があるらしいから、探ってみよう」という心持から、二人合意で荏原屋敷の見える、ここの農家の離家《はなれ》を借りて、夫婦のように住居《すまい》して来たのであった。
しかるに二人して住んでいる間も、主税に絶えず思い出されることは、云いかわした恋人お八重のことで、従って自ずとそれが口へ出た。そうでない時には淀屋の独楽を廻し、これまでに現われ出た文字以外の文字が、なお現われはしまいかと調べることであった。
しかしもちろん主税としては、あやめ[#「あやめ」に傍点]の寄せてくれる思慕の情を、解していないことはなく、のみならずあやめ[#「あやめ」に傍点]は自分の生命《いのち》を、二度までも救ってくれた恩人であった!
(あやめ[#「あやめ」に傍点]の心に従わなければ……)
このように思うことさえあった。
しかし恋人お八重の生死が、凶とも吉とも解《わか》らない先に、他の女と契りを交わすことは、彼の心が許さなかった。そこでこれまではあやめ[#「あやめ」に傍点]に対して、故意《わざ》と冷淡に振舞って来た。
が、今になってそのあやめ[#「あやめ」に傍点]から、このように激しく訴えられては、主税としては無理なく思われ、心が動かないではいられなかった。
堅く眼を閉じてはいたけれど、あやめ[#「あやめ」に傍点]の泣いていることが感じられる。
(決して嫌いな女ではない)
なかば恍惚となった心の中で、ふと主税はそう思った。
(綺麗で、情熱的で、覇気があって、家格も血統も立派なあやめ[#「あやめ」に傍点]! 好きな女だ好きな女だ! ……云いかわしたお八重という女さえなければ……)
恋人ともなり夫婦ともなり、末長く暮らして行ける女だと思った。
(しかもこのように俺を
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