市の有名な市長であった。
「ははあ誘いに来たのだな。大方ホテルへでも行くのだろう。夜会だな、結構なことだ。……俺は書生部屋で豚でもつつ[#「つつ」に傍点]こう」
 だが一体どうしたことだ? 一晩も泊まっては来ないではないか。
 どんなに遅くとも帰って来た。
「遠慮はいらない。泊まっておいでよ」
 私は心で云ったものである。
「大方の貴婦人というものは、時々紳士と泊まるものだ。それも鍛練の一つじゃないか。何の私が怒るものか。また怒り切れるものでもない。第一お前はいつの間にか、絶対に私を怒らせないように、上手に仕込んでしまったではないか」

19[#「19」は縦中横]

 それは初冬のある日であった。私は書斎の長椅子にころがり[#「ころがり」に傍点]、氈《かも》にふかふか[#「ふかふか」に傍点]と包まれながら、とりとめのないことを考えていた。彼女はその日も留守であった。本当に「彼女」というこの言葉は、彼女にうってつけ[#「うってつけ」に傍点]の言葉であった。彼女と私とは他人であった。……三人称で呼ぶべきであった。
「物質的には食傷している。精神的には空腹だ。これが現在の生活だ。変に跛者《び
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