こっそり[#「こっそり」に傍点]と、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。
「予想通りだ」と私は云った。
「流浪の旅へでも出たのだろう」
私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。
間もなく春が訪れて来た。
やがて晩春初夏となった。
彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。
菖蒲《あやめ》の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。
だんだん私は健康になった。
ある日久しぶりでK博士を訊ねた。
博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。
その日も書斎で物を書いていた。
私はそこで話し込んだ。
と、博士が不意に云った。
「汎猶太《はんユダヤ》主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」
「ああ左様でございますか」
「倫敦《ロンドン》タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」
私はちょっと興味を持った。
24[#「24」は縦中横]
「それが大変探偵的なのです」
博士はいくらか小声になった。
「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の白金《プラチナ》貨幣、その紋章のどの辺りかに、巧妙な図案式文字をもって彫み込んであるのだということです。ところで貨幣の紋章ですが、旧約聖書と新約聖書、その中に出て来る人物を、三十人だけ選択し、打ち出してあるということです。基督《キリスト》はじめ十二使徒などは、勿論入っているのですね。その中とりわけ[#「とりわけ」に傍点]大事なのは、ユダを抜かした十一人の使徒を、打ち出した所の貨幣だそうです。だがまあ[#「まあ」に傍点]これはいいとして、面白いのはその貨幣が、一枚を抜かして二十九枚は、白金ではなくて贋金なのだそうです。つまり勿体を付けるために、白金のようには作ってあるものの、中味は鉛か何かなのですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」
「ははあ」と私は微笑して云った。
「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」
「おや、どうしてご存知です」
博士はさもさも[#「さもさも」に傍点]驚いたように、
「仰せの通りそうなのですよ」
「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」
「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護《まもり》本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」
私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。
それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。
私には一つの疑問があった。
「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」
「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。
「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係《かかわり》はない」
下宿生活が不便になった。
「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」
私は借家を探し出した。
児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
格子の内側に障子があり、障子には硝子《ガラス》が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。
「おや」と私はまた云った。
見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまり[#「ちんまり」に傍点]とかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢《けはい》を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。
「粂子!」と私は声を上げた。
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