と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。
 彼女は土間に立っていた。
 私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。
 彼女の口から啜り泣きが洩れた。
「妾《わたし》は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を! 妾は純潔でございますの」
 彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。
「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」
 そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。

 彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に対向《あた》り、大詐欺師をして屈伏せしめ、白金《プラチナ》三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。
 そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。
 で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。
 これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも良人《おっと》の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。
 佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。
 そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。

25[#「25」は縦中横]

 私達は一緒に住むことになった。
 最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。
 次第に二人は幸福になった。
 彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやし[#「あやし」に傍点]たりした。剽軽なことを云ったりした。
「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまき[#「まきまき」に傍点]するのよ、まきまき[#「まきまき」に傍点]をね」
 襟巻を巻けというのであった。
「たあた[#「たあた」に傍点]を穿くのよ。ね、たあた[#「たあた」に傍点]を」
 足袋を穿けというのであった。
 ある時私はこう云って訊いた。
「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」
「え、したのよ。県知事さんと」
 大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。
「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金《プラチナ》だと」
「いいえ」と彼女は笑いながら云った。
「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」
「なるほど」と私は胸に落ちた。
「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」
 私達二人は平和であった。
 しかし私は時々思った。
「キッスぐらいは許したかもしれない」
 だが直ぐ私は思い返した。
「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」
 穏かに時が流れて行った。
 ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく[#「ひどく」に傍点]安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。
 それは苦労をしたからであった。
 いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然|縹緻《きりょう》を落としてしまった。
 精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為《ふため》のように思われる。
 私も随分苦労をした。
 年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。
 彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長《せい》も高くはなくなった。
 だがそれも結構ではないか。
 美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。
 だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。
 だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。
 真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段]
 二人の生活には変わりがなかった。

 何でもないことだが云い落とした。
 佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?
 やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。



底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
   1993(平
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