銀三十枚
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)意《つもり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)革|商人《あきゅうど》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)まんざら[#「まんざら」に傍点]の男振り
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「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。まんざら[#「まんざら」に傍点]の男振りでもない意《つもり》だ。いう事を聞きな、いう事を聞きな」
 ユダはこう云って抱き介《かか》えようとした。
 猶太《ユダヤ》第一美貌の娼婦、マグダラのマリアは鼻で笑った。
「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」
「え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか」
「胸をご覧、妾《あたし》の胸を」
 マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダはくらくら[#「くらくら」に傍点]と目が廻った。
「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」
「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく解《わか》った」
 ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革|商人《あきゅうど》のヤコブであった。
「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」
 革財布をチャラチャラ揺すぶった。
「どれお見せ!」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、
「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」
 寝室の戸をギーと開けた。
 充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。
 マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。
 銀三十枚が股の上にあった。
「畜生!」と突然彼女は叫んだ。
「一杯食った! ヤコブ面に!」
 三十枚の銀をぶちまけ[#「ぶちまけ」に傍点]た。
「マリア!」とその時呼ぶ声がした。
「誰《だアれ》!」と彼女は娼婦声で云った。
「解らないのかい。驚いたなあ」
「あら解ってよ。お入んなさい」
 彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。
「これはこれは」と彼は云った。
「銀《しろがね》の洪水と見えますわい」
「よかったらお前さん持っておいでな」
「気前がいいな。そいつアほんとか?」
 カヤパは勿怪《もっけ》な顔をした。



 イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、棕樹《そうじゅ》、橄欖《かんらん》、無花果《いちじく》の木々を、銀鼠色に燻らせていた。
 肉柱《にくけい》の香、沈丁《ちんちょう》の香、空気は匂いに充たされていた。
 十三人は歩いて行った。
 小鳥が塒《ねぐら》で騒ぎ出した。その跫音《あしおと》に驚いたのであろう。
 と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの渓流《ながれ》、ゲッセマネの園、そっちの方へ流れて行った。エルサレムの方へ流れて行った。
 月光は黎明を想わせた。
 十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。
 イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。
 ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。
 彼にはイエスが疑わしく見えた。
 イエスに疑念を挟《さしはさ》んだのは、かなり以前《まえ》からのことであった。ユダにはイエスが傲慢に見えた。それが不愉快でならなかった。
 女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。
「瞽《めし》いた者は見ることが出来、跛《あしな》えた者は歩くことが出来、癩病《やめ》る者は潔まることが出来、聾《し》いた者は聞くことが出来、死んだ者は復活《よみが》えることが出来、貧者は福音を聞かされる。俺《わし》に来たる者は幸福《さいわい》である」と。
 その時ユダはこう思った。
「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」
 しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。
 浅薄《あさはか》な感情のためではなく、もっと深刻な思想のために、彼はイエスを裏切ったのであった。
「神とは一体何だろう?」
 ユダはここから発足した。
「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物! 猶太教《ユダヤきょう》ではこう説いている。そうしてイエスもこう説いている。だが果たしてそうだろうか?」



 ユダはその説とは反対であった。
「宇宙は[#「「宇宙は」は底本では「 宇宙は」]決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻
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