っている。勝手に生れ死んでいる。神! そんな物は存在しない」
イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。
そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に手頼《たよ》り「神の国」を建てようとする愛国狂が、ユダの眼には滑稽に見えた。
ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。
そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。
「お前達が俺《わし》を尋ねるのは、パンを貰ったためだろう? だがお前達よそれは可《よ》くない。朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働くがいい。……神は今やお前達へ、真のパンをお与えなされた。この俺こそそのパンだ。俺に来る者は飢えないだろう、俺を信ずる者は渇かないだろう」
「莫迦な話だ」とユダは思った。
「預言者どころの騒ぎではない。彼奴《あいつ》はひどい[#「ひどい」に傍点]利己主義者だ。途方もない妄想狂だ。『朽ちる糧のために働かずに、永生の糧のために働け』という。これこそ妄想狂の白昼夢だ。永生とは一体何だろう? 生命《いのち》ある物はきっと死ぬ。永存する物は無生物だけだ。『俺に来る者は飢えないだろう。俺を信ずる者は渇かないだろう』ではお前へ行かない者は飢えるということになるのだな。ではお前を信じない者は、渇くということになるのだな。彼奴は要するに大山師だ!」
ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。
十三人は歩いて行った。
次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。木乃伊《ミイラ》のように痩せて見えた。
ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。
――イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような平和《おだやか》さがなく、木の根や岩に躓《つまず》いた。そうして幾度も休息した。それでもそのつど説教した。
楊《やなぎ》の茂みを潜りぬけ、ケロデンの渓流《ながれ》を徒歩《かち》渡りし、やがてゲッセマネの廃園へ来た。
イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。
「さあお前達は監視《みまも》っていろ。……ヨハネ、ペテロ、ヤコブは来い。俺と一緒に来るがいい」
こう云ってイエスは奥へ進んだ。
「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」
ついに三人をさえ追い払った。
イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。
と、林が立っていた。楊、橄欖《かんらん》の林であった。イエスはその中へ入って行った。そこへは月光は射さなかった。禁慾行者の禅定のような、沈黙ばかりが巣食っていた。
突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。
「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」
白痴《ばか》か、子供か、臆病者か、そんなような憐れな声を上げて、こうイエスはお祈りをした。
4
ユダは後を尾行《つけ》て来た。菩提樹の陰へ身を隠し、そこから様子をうかがった。
彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、疾《やまし》くなかった事を知ることが出来た。
「彼奴《あいつ》はイエスだ、ただイエスだ。なんの彼奴が預言者《キリスト》なものか! 預言者《よげんしゃ》なら助けを乞うはずはない。例の得意の奇蹟というので、さっさと難を遁れるはずだ。しかし」と彼は考え込んだ。
「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」
彼は心に痛みを感じた。
「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」
梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。
やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。
不安と疲労《つかれ》とで使徒達は、木の根や岩角を枕とし、昏々《こんこん》として眠っていた。
イエスは一人々々呼び起こした。
「眠っては不可《いけ》ない。お祈りをしよう」
ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。
しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。[#「眠り出した。」は底本では「眠り出した、」]麻痺的に病的に眠いらしい。
「また眠るのか、何ということだ! 惑《まど》いに[#
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