「惑《まど》いに」は底本では「惑《まどい》いに」]入らぬよう祈るがいい」
 イエスは如何《いか》にも寂しそうに云った。
 と、にわかに叫び声を上げた。
「時は近づいた! 遣って来た!」
 麓の方を指さした。
 山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。
 打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。
「うん、来たな」とユダは云った。
 それからその方へ小走って行った。
 ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。
「マルコ」とユダは近寄って行った。
「接吻が合図だ。間違うなよ」
「大丈夫だ。大丈夫だ」
 そこで一隊は歩き出した。傍路《わきみち》からユダは先へ廻った。
「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」
 ユダは走りながらワクワクした。
 マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。
 使徒達はイエスを囲繞《とりま》いた。
 イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついて[#「おちついて」に傍点]いた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。
 その時|無花果《いちじく》の茂みを分け、つと[#「つと」に傍点]ユダが進み出た。
「ラビ、安きか!」とユダは云った。
 そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。
 イエスの顔はひん[#「ひん」に傍点]曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。
 が、その次の瞬間には、以前《まえ》の態度に返っていた。
 兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。
「お前達は誰を訊《たず》ねるのだ?」
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「ナザレのイエスを? では俺だ」
 マルコと兵士とは後退りした。
「お前達は誰を訊ねるのだ?」
 またイエスはこう訊いた。
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を発見《みつけだ》した。……この者達には罪はない。この者達を行かせてくれ」
 こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ跪《ひざまず》いた。幾度も土へ接吻した。それから祈祷の声を上げた。
 ユダだけは一人立っていた。



 それは劇的の光景であった。
 だが何物にも変化はなかった。
 沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
 ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の側《そば》で、曳かれて来るキリストを待っていた。
 それは劇的の光景であった。
 使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から贈《くだ》された盃だ」
 彼は両手を差し出した。
 彼は、従容《しょうよう》と縄を受けた。

 誰も彼もみんな立ち去った。橄欖山《かんらんざん》は静かになった。
 ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を希望《のぞ》んでいた人の様に、従容と縛に就《つ》こうとは? 一体|彼奴《あいつ》は何者だろう?」
 ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。
 楊《やなぎ》の木に体をもたせかけ、暁近い空を見た。
 どうにも不安でならなかった。

 イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。
 祭司長カヤパはこう訊いた。
「お前は本当に神の子か?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「人の子|大権《たいけん》の右に坐し、天の雲の中に現われるだろう。お前達はそれを見るだろう」
 カヤパの司どる猶太教《ユダヤきょう》からすれば、神の子だと自ら称することは、この上もない冒涜であった。その罪は将《まさ》に死に当たった。
 人を死罪に行なうには、羅馬《ローマ》政府の方伯《ほうはく》たるピラトに聞かなければならなかった。
 サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。
 やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて[#「しょびいて」に傍点]行った。
 それは金曜日にあたってい
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