なかった。と云って保存して置いたなら、いわゆる贓物隠匿として、露見した場合には必然的に、刑事問題を惹き起こすだろう。
「おい、どうしたものだろう?」
「さあ、ねえ」と彼女は考え込んだ。
「訴えて出るのが至当でしょうね」
「うん」と私は考え込んだ。
「変にえこじ[#「えこじ」に傍点]に調べられると、カッと逆上する性質《たち》だからなあ」
「それに貴郎《あなた》はお忙しいんでしょう」
「うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう」
「それが一番困りますわね」
 彼女は熱心に考え込んだ。
 大方の芸術家がそうであるように、一面私は神経質で、他面私は放胆であった。又一面|洒落《しゃれ》者で他面著しく物臭であった。宿命的病気に取っ付かれて以来、その程度が烈しくなった。この病気の特徴として、いつも精神が興奮した。
 だが私は私の病気を、祝福したいような時もあった。「空想」が奔馳して来るからであった。本来私という人間は、空想的の人間であった。空想には不自由しなかった。それが病気になって以来、その量が一層増したらしい。空で行なわれているエーテルの建築! それを破壊する電子の群れ! そんなものが私には、「見える」のであった。だがまだ私は霊媒《ミジャム》ではなかった。しかし早晩なるだろう。他界の消息、黄泉の通信、幽霊達の訴言《うったえごと》、そういうものだって知ることが出来よう。
 物を書きながら苦しむことがあった。後から後からと空想が、駈け足で追っかけて来るからであった。文字にして原稿紙へ書き取る暇さえ、ゆっくり与えてはくれないからであった。そんな時私はゴロリと寝た。動悸の烈しい心臓を抑え、空想の駈け抜けるのを待つのであった。
 町を歩きながら立ち止まり、電信柱へ倚りかかり、湧き上って来る空想を、鼻紙の上へ書いたりした。
 ある夜空想が湧き上って来た。折悪しく鼻紙を持っていなかった。一軒の商店の板壁へ、万年筆で書き付けた。そうして翌朝出かけて行き、写し取って来たような事さえあった。
 今に私は往来の人の、背中へ紙をおっ付けて、そこで書くようになるかもしれない。
 創作力に充満《みちみち》ていた。それをこんなつまらない[#「つまらない」に傍点]ことで、破壊されるのは厭だった。
 急に妻は変に笑った。ゾッとするような笑い方であった。それから私をからかい[#「からかい」に傍点]出した。
「無理はないわね、貴郎としては。そうら出入りの呉服屋さん、ちょっと相場で儲けたと云って、白金《プラチナ》の腕時計を巻いて来たらニッケルにしちゃアいい艶だって、こんな事を云ったじゃアありませんか、そうかと思うと妾の時計、そりゃあニッケルとしては類なしで、金時計より高価《たかい》んですけれど、こいつア素晴らしい白金だって、大騒ぎをしたじゃアありませんか。白金だか銀だか解《わか》らないのは[#「解《わか》らないのは」は底本では「解《わか》からないのは」]、ちっとも不思議じゃアありませんわね」

13[#「13」は縦中横]

「何だ莫迦め!」と呶鳴り付けた。
「そんな事を云い出して何になるんだ」
 だが彼女はますます笑い、ますます私をからかった[#「からかった」に傍点]。
「貴郎《あなた》、ペテンに掛かったのよ。ええそうとしか思われないわ。でもどうしてこんなペテンに? いいえさ佐伯とかいう大詐欺師が、どうしてこんな変なペテンに、引っかけなければならなかったんでしょう? 儲かることでもないのにね。かえって大変な損をするのに。これには奥底があるんだわ。そうとしきゃア思われないわ。恐いわねえ、どうしましょう。返していらっしゃいよ、さあ直ぐに」
「莫迦め!」と私はまた呶鳴った。
「牢屋へ持ってって返せってのか」
「では貴郎には手が着かないのね?」
 にわかに彼女は冷静になった。
「妾《わたし》にお委せなさいまし」
「で、お前はどうするつもりだい?」
「貴郎それをお聞きになりたいの? では自分でなさるがいいわ」
 彼女は再び揶揄的になった。
「だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら」
「だが俺には手が出ないよ」
「お書きなさいまし、原稿をね」
 それは歌うような調子であった。
「そうして何にも思わないがいいわ。食い付きなさいまし、お仕事にね。貴郎は可愛いお馬鹿ちゃんよ。組織立ったことをさせるのは、それは無理と云うものよ。お信じなさいまし、妾をね」
 私は彼女へ委せてしまった。何にも考えないことにした。さあ仕事だ! さあ創作だ! 空想よ駈り立ててくれ!

 年が改たまって新年《はる》となった。
 妻の様子が変わって来た。
 彼女と私とは恋愛によって、一緒になった夫婦であった。彼女は私を愛していた。ところが
前へ 次へ
全21ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング