だ。ところが英語で署名してある。これ一つでもこの銀貨の、贋物ということが証明できる」
 私は思わず呟いた。
「いいえ」とその時妻が云った。
「え?」と私は顔を上げた。
 紋章の研究に心を奪われ、彼女の事を忘れていた。
「お前何とか云ったかい」
 彼女は返事をしなかった。彼女の表情には変なものがあった。眼が銀貨に食い付いていた。燃えるような熱のある眼であった。頬が病的に充血していた。ふっ[#「ふっ」に傍点]と彼女は私を見た。疑惑に充ちた眼であった。
「貴郎《あなた》」と彼女は叱るように云った。
「何人《どなた》からお借りしていらしったの? こんな妙な気味の悪いものを」
「気味が悪いって? どうしてだい?」
 いわゆる唖然とした心持で、聞き返さざるを得なかった。
「贋金なんだよ、古代猶太のね」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「何人からお借りしていらしったの? 聞かせて下さいよ。さあ直ぐに」
 厳粛《げんしゅく》と云いたいような声であった。彼女にそぐわない[#「そぐわない」に傍点]声であった。
「佐伯って人だ。佐伯準一郎」
 何だか私は不安になった。
「立派な紳士だよ、蒐集家なんだ」
「佐伯準一郎? 聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの?」
 私は急に厭になった。
「また何かを嗅ぎ付けやがったな、ほんとに仕方のない目っ早小僧だ! だが今度はお生憎様さ、ちょっとも引け目なんかないんだからな」
 こんなように考えた。
 で、私はやっつける[#「やっつける」に傍点]ように云った。
「これから俺の人名簿へ、新しく記《つ》けようっていう友人なのさ」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「どうしてどこでお友達になって?」
「公園でだよ。鶴舞公園でね」
「いつ?」と彼女は追っかけて訊いた。叱るような声であった。
 危うく反感を持とうとした。しかし私は差し控えた。不安どころか悲しみをさえ、彼女の顔に見たからであった。
「今日の昼さ。病院の帰りにね。……何だかひどく心配そうだなあ。その可愛い凸ちゃんを、心配させちゃア可哀そうだ。よし来た詳しく話してやろう」
 ――私はバセドー氏病の患者であった。毎週一回病院へ通って、かなり強いレントゲンの、放射を受けなければならなかった。その往復に公園を通った。鶴舞公園はいい公園で、日比谷以上に調っていた。一つのロハ台へ腰を掛け、好きなラ・ラビアを喫《ふ》かすのが、夏以来の習慣であった。
 冬も冬、一月中旬、冷たい風が吹き迷っていたのに、この習慣は止められず、その日も私はロハ台に倚《よ》って、ラ・ラビアを喫かしていた。

10[#「10」は縦中横]

 その時毛皮の外套を着た、四十五六の立派な紳士が、私の横へ腰を掛け、ゆるやかに葉巻を喫かし出した。
「あの大変失礼ですが、貴郎《あなた》は美術家ではいらっしゃいませんか?」
 紳士が卒然話しかけた。
「いえ」と私は素っ気なく云った。
 私は私の趣味として、商売のことを訊かれるのと、年齢のことを訊かれるのとを、好まないばかりか嫌っていた。そうして私はそんなように、見知らない人から話しかけられるのを、これまた趣味として好まなかった。
 紳士は外套の内|衣兜《かくし》から、ゆっくり名刺入れを取り出した。一揖すると名刺を出した。
「私、佐伯と申します。最近|欧羅巴《ヨーロッパ》から帰りましたもので」
 これは益々私にとっては、好ましくない態度であった。洋行帰りがどうしたんだ! あぶなく心で毒吐こうとした。しかしそいつ[#「そいつ」に傍点]をしなかったのは、その佐伯という紳士の態度が、よい意味における慇懃で、こしらえた[#「こしらえた」に傍点]所がなかったからであった。
 私も名刺を手渡した。
「おやそれでは一條さんで。よくお名前は存じて居ります。たしかお作も見たはずです。いや私は最初から、芸術家でいらっしゃると思っていました。それでお言葉を掛けましたので。全く芸術家の方々には、一つの型がございますのでね」
 この言葉は中《あた》っていた。芸術家には型があった。たいして愉快な型ではないが。
「はなはだ突然で不作法ですが、ご迷惑でなかったら拙宅へ、これからおいで下さるまいか。お見せしたい物がありますので、恐らくお気にも入りましょう。実は私は好事家でしてな、その方面ではかなり広く、海外へも参って居りますので。相当珍品も集まって居ります。宅は公園の直ぐ裏で。ええそうです××町です。ナーニご遠慮にゃア及びません。私の方から見て頂きたいので。訳の解らない骨董屋などより、芸術家のお方に見て頂いた方が、どんなに有難いか知れません。物を集めるということは、自分の趣味性を充たすと同時に、やはり具眼者に見て頂いて、その批評を承わるのが、目的の一つでございますからね」
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