ていた。貨幣の縁を囲繞《とりまい》ているのは、浮彫にされたローレルの葉で、その中に肖像が打ち出されてあった。肖像が異っているのであった。私は一つを取り上げて見た。長髪を肩までダラリと下げた、悲しそうではあるが高朗とした、間違いない基督《キリスト》の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。頭の禿げた眼の落ち込んだ、薄い唇を噛みしめた、意志の権化とでも云いたげな、老人の姿が打ち出されてあった。使徒ペテロに相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。火のように髪を渦巻かせ、瞑想的の眼を空へ向け、感覚的の唇を幽かに開けた、詩人のような人物が、ローレルの葉に囲繞かれていた。黙示録の著者に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。丸顔で無髯で眼の細い、平和的の使徒の肖像が、その貨幣には打ち出されてあった。最初にサマリヤへ布教した、ピリポの肖像に相違なかった。もう一つの貨幣を取り上げて見た。無気力ではないかと思われる程、痩せた皺だらけの貧相な顔が、その貨幣には打ち出されてあった。ヘロデ王の兇刃によって、無慚に殺された使徒ヤコブ、その肖像に相違なかった。
もう一つの貨幣を取り上げて見た。それにも肖像が打ち出されてあった。
「うん、こいつはイスカリオテのユダだ」
私は直《す》ぐに知ることが出来た。そんなにもそれは特色的であった。一見醜悪の容貌であった。だが仔細に見る時は、恐ろしく勝れた容貌であった。先づ顱頂部が禿げていた。しかし左右の両耳から、項へかけて髪があった。つまり頭の後半を、髪が輪取っているのであった。これが一見不愉快に見えた。しかしこれは一方から云えば、学者などに見る叡智の相で、決して笑うことの出来ないものであった。額が不自然に狭かった。これも一見不愉快であった。先天的犯罪人の相でもあった。が、これとて一方から云えばソクラテスの額に似ていると云った、一種病的な天才等に、往々見受けられる額であった。両眼がひどく[#「ひどく」に傍点]飛び出していた。枝の端などで突かれなければよいが、こんな事を思わせる程飛び出していた。だがやっぱりこの眼付きも、ソクラテスの眼付きに似ているのであった。非常に智的な眼付きなのであった。鼻は所謂《いわゆ》る獅子鼻であった。唇がムックリ膨れ上っていた。二つながら強い意志の力の、表現だと云ってもよさそうであった。反逆性のあることを、さながらに示した高い頬骨、精神的苦悶の著しさを、そっくり現わした満面の皺、断じて俺は妥協しない! こう言いたげな根張った顎、そうして頸は戦闘的に、牡牛のように太かった。
顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。
「いかなる物をも信じないよ」
こう云っているような顔であった。
9
「なるほど」と私は心の中で云った。
「従来の美学から云う時は、これは将《まさ》しく非審美的の顔だ。女や子供には喜ばれまい。だがしかしこの顔こそ、本当の人間の顔ではないか」
基督《キリスト》の肖像と並べて見た。洵《まこと》に面白い対照であった。信仰、柔和、愛、忍従、これが基督の肖像に、充ち溢れている特徴であった。全体が細身で美しく、古典的に調っていた。力が非常に弱かった。虚無、憤怒、憎悪、反抗、これがユダの肖像に、行き渡っている特色であった。全体が野太く荒削りで、近代的に畸形であった。力が恐ろしく強かった。
「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。[#「掴むがいい。」は底本では「掴むがいい、」]だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を動《そそ》られるだろう。そうして世間から迫害されるだろう。一生平和は得られないだろう」
基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。
一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、耶蘇《エス》基督との肖像を、三十枚の貨幣のその中から、苦心して選択をすることが出来た。まだ後十七枚残っていた。どれにも肖像が打ち出されてあった。それも間もなく知ることが出来た。
モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。
「猶太《ユダヤ》の古代貨幣なら、猶太文字で署名がしてあるはず
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