で、一番利口なのが革商人ということになるのですからね」
私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな貨幣《もの》で、持ち重りするほど重かった。そうして昨日《きのう》鋳たかのように、ひどくいい色に輝いていた。
「恐ろしく重いじゃアありませんか」
私は吃驚《びっくり》して佐伯氏に云った。
「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?」
「さあ、そいつは解《わか》りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか」
いかにも面白い紋章であった。
「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」
「ええなりますとも大なりです」
こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、定《き》まって一つの話をして、そうして書けというからであった。もう鼻に付いていた。
とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。
7
「是非お書きなさい、お進めします」
旅行家でもあり蒐集家でもある、佐伯準一郎氏はこう云った。
「ついては貨幣をお貸ししましょう。その紋章を調べるだけでも、趣味があるじゃアありませんか。一枚と云わず三十枚、みんな持っておいでなさい。実は私は明日か明後日、またちょっと旅行に出かけますので、当分それは不用なのです。紛失《なく》されてはいささか困りますが、紛失なるような物ではなし、お貸しするとは云うものの、その実保管が願いたいので、ナーニご遠慮にゃア及びません。……それはそうと随分重い、とても持っては帰れますまい。ひとつ貸自動車《タクシ》を呼びましょう」
事実私はその貨幣にも、貨幣の紋章にも興味があった。そうして物語に綴るとしても、何かそういう貨幣のような、物的参考があるということは、確実性を現わす上に、非常に便利に思われた。
私は遠慮なく借りることにした。
その中タクシがやって来た。
佐伯氏は貨幣を革財布へ入れ、そうしてタクシへ運び込んでくれた。
「いずれ旅行から帰りましたら、お手紙を上げることにいたしましょう。いや私がお訪ねしましょう。文士の家庭を見るということも、ちょっと私には興味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」
佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。
「左様なら」と私は帽子を取った。
「左様なら」と佐伯氏は微笑した。
だが私にはその微笑[#「微笑」は底本では「微少」]が、ひどく気味悪く思われた。
名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは駛《はし》って行った。
8
私のタクシは駛って行った。
公園は冬霧に埋もれていた。
公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。
名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の住居《すまい》であった。
そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。
妻の粂子《くめこ》は起きていた。
「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き介《かか》えた。それから頬をおっ[#「おっ」に傍点]付けた。これが彼女の習慣であった。子供のように扱うのであった。
二階の書斎へ入って行った。
「おい好い物を見せてあげよう。これはね、猶太《ユダヤ》の銀貨なのさ」
財布から銀貨を取り出した。
「まあやけ[#「やけ」に傍点]に大きいのね」
彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部|義歯《いれば》であった。笑うと義歯が露出した。それが私には好もしくなかった。だがその眼は可愛かった。眼尻の方から眼頭の方へ、一分ほど寄った一所の、下瞼が垂れていた。といって眼尻が下っているのではなかった。眼尻は普通の眼尻なのであった。ただそこだけが垂れていた。それがひどく[#「ひどく」に傍点]彼女の眼を、現代式に愛くるしくした。それは子供の眼であった。どこもかしこも発育したが、そこばっかりは子供のままに、ちっとも発育しなかったような、そういう愛くるしい眼なのであった。その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信頼してよかった。
その眼で愉快そうに笑った。
私はそこで説明した。
「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」
紋章はみんな異《ちが》っていた。三十枚が三十枚ながら、別々の紋章を持っ
前へ
次へ
全21ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング