ぶつかった」に傍点]人かのような、絶体絶命[#「絶体絶命」は底本では「絶対絶命」]の恐怖の情がまざまざと現われていたのであった。


 当時、すなわち永禄《えいろく》の頃には、備前の国は三人の大名が各自《おのおの》三方に割居して、互いに勢いを揮っていた。谷津の城には浮田|直家《なおいえ》、龍の口城には最所治部《さいしょじぶ》、船山城には須々木豊前《すずきぶぜん》。――そうして勢力は互格であった。
 最所治部の龍の口城へ、ある日一人の若侍が、父だと云う老人を連れて、さも周章《あわただ》しく駈け込んで来た。手足から鮮血《なまち》を流している。
「私事は浮田の家臣岡郷介と申す者、寃罪《むじつのつみ》によりまして、主人のためかくの如きの折檻、あまりと云えば非義非道、ことには重代の主従ではなし、絶縁致すはこの時と存じ、一人の父を引き連れまして、谷津の城を抜け出し、ここまで参りましてござります。承わりますれば最所殿には士を愛する名君との事、願わくば随身仕り、犬馬の労を尽くしたく、そのため参上致しましてござるが、貴意いかがにござりましょうや?」
 これが若侍の口上であった。
「浮田の家来とあるからは、ちょうど幸い扶持して取らせ、其奴《そやつ》の口から敵状を聞こう」
 最所治部はこう云った。で、郷介はその時から最所家の家来となったのである。
 才気縦横の郷介は間もなく治部の寵臣となったが武道は精妙、弁舌は爽か、それに浮田家の内情は裏の裏まで知っていて、治部が尋ねれば声に応じて、城の要害、武具兵糧、兵の強弱、謀将の可否、どんな事でも物語るので、治部は遺憾なく相格を崩し、郷介を寵愛するのであった。
 こうしていつか春も去り、やがて蒸し熱い夏となったが、その夏も去《い》って秋となった。郷介が治部に随身してから六月の月日が経ったのである。
 或日治部は家来を率いて、馬場で馬術の調練をした。
「郷介」と治部は声を掛けた。
「其方《そち》馬術は鍛練かな?」
「は、いささか仕ります」
 岡郷介は微笑して云う。
「では、一鞍せめ[#「せめ」に傍点]て見ろ」
「は」と云ったが気乗りせず、
「適当の逸物ござりましょうか?」
「馬か? 馬ならいくらもある」
「私、駻馬を好みます」
「荒馬がよいか。それは面白い。では月山に乗って見ろ」
「失礼ながら月山などは、私の眼から見ますると、弱気の病馬に過ぎません
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