郷介法師
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)門《かど》の戸を

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)豪商|魚屋《ととや》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いた
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 初夏の夜は静かに明け放れた。
 堺の豪商|魚屋《ととや》利右衛門家では、先ず小僧が眼を覚ました。眠い眼を渋々こすりながら店へ行って門《かど》の戸を明けた。朝靄蒼く立ちこめていて戸外《そと》は仄々と薄暗かったが、見れば一本の磔《はりつけ》柱が気味の悪い十文字の形をして門の前に立っていた。
「あっ」と云うと小僧平吉は胴顫いをして立ち縮んだが、やがてバタバタと飛び返ると、
「磔柱だア! 磔柱だア!」と大きな声で喚き出した。
 これに驚いた家内の者は挙《こぞ》って表へ飛びだしたが、いずれも気味悪い磔柱を見ると颯《さっ》と顔色を蒼くした。
 注進を聞くと主人利右衛門はノッソリ寝所から起きて来たが、磔柱を一|眄《べつ》すると苦い笑いを頬に浮かべた。
「いよいよ俺の所へ廻って来たそうな。ところでなんぼ[#「なんぼ」に傍点]と書いてあるな?」
「五万両と書いてございます」
 支配の勘介が恐々《こわごわ》云う。
「うん、五万両か、安いものだ。一家|鏖殺《おうさつ》[#「鏖殺」は底本では「鑿殺」]されるより器用に五万両出すことだな」
 こう云い捨ると利右衛門はその儘寝所へ戻って行ったが、海外貿易で鍛えた胆、そんな事にはビクともせず夜具を冠ると眼を閉じた。間もなく鼾の聞こえたのは眠りに入った証拠である。
 五万両と大書した白い紙を胸の辺りへ付けた磔柱は小僧や手代の手によって直ぐに門口から外《と》り去られたが、不安と恐怖は夕方まで取り去ることが出来なかった。
 その夕方のことであるが、艶かしい十八九の乙女《おとめ》が一人、洵《まこと》に上品な扮装《みなり》をして、魚屋方へ訪れて来た。
「ご主人にお目にかかりとう存じます」
「ええ何人《どなた》でございますな?」
「五万両頂戴に参りました」
「わっ」と云うと小僧手代は奥の方へ走り込んだが、それと引き違いに出て来たのは主人の魚屋利右衛門であった。
「お使いご苦労
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