に存じます」
 利右衛門は莞爾と笑ったが、
「先ずお寄りなさりませ」
「いえ少し急ぎます故……」
 乙女は軽く否むのである。
「五万両の黄金は重うござるに、どうしてお持ちなされるな?」
「魚屋様は商人でのご名家、嘘偽りないお方、それゆえ現金は戴かずとも、必要の際にはいつなりとも用立て致すとお認《しめ》し下されば、それでよろしゅうございます」
「それはそれはいと易いこと、では手形を差し上げましょう」
 サラサラと一筆書き記すと、それを乙女へ手渡した。
「それでよろしゅうござるかな?」
「はい結構でございます。ではご免下さりませ」
「もうお帰りでございますかな?」
「はい失礼致します」
 乙女は淑やか[#「淑やか」は底本では「叔やか」]に腰をかがめると静かに店から戸外《そと》へ出たが、黄昏《たそがれ》の往来を海の方へ急かず周章《あわて》ず歩いて行く。

 それから間もないある日のこと。千利休に招かれて利右衛門は茶席に連なった。日頃から親しい仲だったので、客の立去ったその後を夜に入るまで雑談した。
 ふと思い出した利右衛門は盗難の話をしたものである。
「それはそれは」と千利休は驚きの眼を見張ったが、
「磔柱の郷介と宣《なの》る凄じい強盗のあることは私《わし》も以前《まえ》から聞いては居たが、貴郎《あなた》までを襲おうとは思い設けぬことでござった。打ち捨て置くことは出来ませぬ。早速殿下に申し上げ詮議することに致しましょう」
「いやいや打ち捨てお置きなされ、障《さわ》らぬ神に祟りなし。なまじ騒いだその為に貴郎にもしもお怪我でもあってはお気の毒でございます」
 すると利休は哄然と豪傑笑いを響かせたが、
「茶人でこそあれこの利休には一分の隙もございませぬ。なんで賊などに襲われましょう」
 それを聞くと魚屋利右衛門はちょっと気不味そうな顔をしたが、
「いや左様ばかりは云われませぬ。天王寺屋宗休、綿屋一閑、みな襲われたではござらぬかな。お大名衆では益田長盛様、石田様さえ襲われたという噂、ことに高津屋勘三郎は、賊の要求を入れなかった為、一家鏖殺[#「鏖殺」は底本では「鑿殺」]の悲運に逢い、あれほどの大家が潰れたはず、尋常な賊ではござりませぬ。まずそっとしてお置きなされ、それに貴郎の所には殿下よりお預かりの名器もあり、さような物でも望まれましたら、それこそ一大事ではござりませぬか」
 す
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