持ち、中央にいる二人の小男が、蛇味線《じゃみせん》を撥《ばち》で弾いていた。
 頭領と見える四十五六の男は、さすがに黒革の鎧を着、鹿角《かづの》[#ルビの「かづの」は底本では「かずの」]を打った冑《かぶと》を冠り、槍を小脇にかい込んでいた。
 この一党は何物なのであろう? いわば野武士と浪人者と、南朝の遺臣の団体《あつまり》なのであった。応仁の大乱はじまって以来、近畿地方は云う迄もなく、諸国の大名小名の間に、栄枯盛衰が行なわれ、国を失った者、城を奪われた者が、枚挙に暇ないほど輩出した。その結果禄に離れた者が夥《おびただ》しいまでに現われた。すなわち野武士浪人が、日本の国中に充ちたのである。それ以前から足利幕府に、伝統的に反抗し、機会さえあったら足利幕府に、一泡吹かせようと潜行的に、策動している南朝方の、多くの武士が諸方にあった。すなわち新田《にった》の残党や、又、北畠《きたばたけ》の残党や、楠氏《なんし》の残党その者達である。で、そういう武士達は、時勢がだんだん逼塞し、生活苦が蔓延するに従い、個人で単独に行動していたのでは、強請《ごうせい》、押借《おしがり》というようなことが、思うように効果があがらなくなったのと、いうところの下剋上《げこくじょう》――下級《した》の者すなわち貧民達が、上流《うえ》の者を凌ぎ侵しても、昔のようには非難されず、かえって正当と見られるような、そういう時勢となったので、そこで多数が団結し、何々党、何々組などと、そういう党名や組名をつけて、※[#「てへん+晉」、第3水準1−84−87]紳《しんしん》の館や富豪の屋敷へ、押借りや強請に出かけて行くことを、生活の方便とするようになった。
 ここへ行く一団もそれであって、「あばら組」という組であり、頭目は自分で南朝の遺臣、しかも楠氏の一族の、恩地左近《おんじさこん》の後統である、恩地雉四郎であると称していたが、その点ばかりは疑わしかったが、剽悍の武士であることは、何らの疑いもないのであった。
 この一団が傍若無人に、それほど夜も更けていないのに、京都の町をざわめきながら、小走りに走って行くのであった。


 調度掛にかけてある弓箭《きゅうぜん》を眺め、しばらく小首を傾けている、日置正次《へきまさつぐ》の耳へ大勢の人声が、裏庭の方から聞こえてきたのは、それから間もなくのことであった。
(はてな?)と
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