弓道中祖伝
国枝史郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)世話《せわ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)武者|草鞋《わらじ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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「宿をお求めではござらぬかな、もし宿をお求めなら、よい宿をお世話《せわ》いたしましょう」
 こう云って声をかけたのは、六十歳ぐらいの老人で、眼の鋭い唇の薄い、頬のこけた顔を持っていた。それでいて不思議に品位があった。
「さよう宿を求めて居ります。よい宿がござらばお世話下され」
 こう云って足を止めたのは、三十二三の若い武士で、旅装いに身をかためていた。くくり袴、武者|草鞋《わらじ》、右の肩から左の脇へ、包を斜《ななめ》に背負《しょ》っていた。手には鉄扇をたずさえている。深く編笠をかむっているので、その容貌は解《わか》らなかったが、体に品もあれば威もあった。武術か兵法かそういうものを、諸国を巡って達人に従《つ》き、極めようとしている遊歴武士、――といったような姿であった。
「よろしいそれではお世話しましょう。ここは京の室町《むろまち》で、これを南へ執《と》って行けば、今出《いまで》川の通りへ出る。そこを今度は東へ参る。すると北|小路《こうじ》の通りへ出る。それを出はずれると管領《かんりょう》ヶ原で、その原の一所に館がござる。その館へ参ってお泊りなされ。和田の翁より承《うけたま》わったと、このように申せば喜んで泊めよう。さあさあおいで、行ってお泊り」
 云いすてると老人は腰を延ばし、突いていた寒竹《かんちく》の鞭のような杖を、振るようにして歩み去った。
 若い武士は唖然としたようであった。
 時は文明《ぶんめい》五年であり、応仁の大乱が始まって以来、七年を経た時であり、京都の町々は兵火にかかり、その大半は烏有《うゆう》に帰し、残った家々も大破し、没落し、旅舎というようなものもなく、有ってもみすぼらしいものであった。若武士が京の町へ足を入れたのは、たった今しがたのことであり、時刻はすでに夕暮であり、事実さっきからよい宿はないかと、それとなく探していたところであった。で、老人に呼び止められ、今のように宿を世話されたことは、有
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