そこへは月光がさしていない。で、姿はわからない。
ただ、声ばかりが聞こえて来る。
「いよいよ今晩でございます。今晩限りでございます」
こういったのは娘らしい。
「ああそうだよ、今晩だよ。そうして今晩限りだよ」
こういったのは武士らしい。
と、しばらく無言であった。
三
ザワ、ザワ、ザワと音がする。木立へ宵の風が渡るらしい。
泉水の水が光っている。月が照らしているからだろう。
泉水の向こう側がもり上がっている。大きな築山でもあるのだろう。その頂きがぬれている。月光がこぼれているからだろう。パタ、パタ、パタ……パタ、パタ、パタ……水鳥の羽音が聞こえて来る。泉水に飼われているのだろう。
一団の真っ白の叢が見える。築山の裾に屯ろしている。ユラユラユラユラと揺れ動く。と、芳香が馨って来た。
牡丹が群れ咲いているのらしい。
と、娘の声がした。
「今夜も行かなければなりますまいか」悲しんでいるような声である。
「お行きお行き、行っておくれ」これは武士の声であった。
「それもお前のためなのだから」
「ああ」と娘の声がした。「どうでもよいのでございます。私のためな
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