それは、若様の歌う筈の「死に行く人魚」の歌ではないのかえ。
従者 そうだと気づいたのは、それから後のことでござります。音の響いている間、歌の聞こえている中は、人々の心はただただ同情と涙と感激とにひたされていたのでござります。あああの時の室内の光景は、燭の光は赤からず白からず、薄物を通して空を見るように青褪めて、壁に天井に人々の影をうつしている。身動きもせぬ人々のその影は、いまにも沸き起こる悪魔の荒《あら》びの一瞬前の静寂《しずけさ》のように、神秘とも凄惨とも云おうようなく見えました。窓を通して外を見れば、月光に浮く海の水鳥、それが人魚の群のように、海の光をうけて流るる空の雲、それが幻の舟のようで。――風も吹かずそよぎもせず、外も内も森然《しん》とした状態《たたずまい》! 響くものは悲しみの歌ばかり、咽び泣く銀の竪琴の音ばかり、ただ音ばかりでござりました。
女子 その時若様は、どうしていたのかえ。
従者 曲を盗まれた若様は、化石のように立ちすくんで、壇の前にかたくなっておりました。
女子 立ちすくんでいるばかり! ええ、ええ、堅くなっているばかり!
従者 曲を盗まれた若様は、壇の前に立ち
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