或る日の夕暮に、ふと[#「ふと」に傍点]海の面へ浮かびますと、一つの赤い帆の舟が直ぐ手前に浮いておりました。舟の船首《へさき》には一人の美しい公子がおりまして、人魚に笑いかけ、そして手に持っていた銀の竪琴をかき鳴らし、誘惑の歌を歌ったのでござります。歌声が人魚に聞こえた時、人魚は海の都を忘れ果て、その公子を慕うようになったのでござります。(間)人魚は公子の乗っている舟を追いました。(間)舟は次第次第に地平線の方へ辷《すべ》って行きまする。公子はその舟の船首で声高々と誘惑の歌を歌います。(間)人魚が追えば追う程、舟はだんだんと遠ざかりまして、青褪めた月が海上に昇り、屍のような水の色が、海の面《おもて》を蔽《おお》うた時、人魚も舟も地平線の背後へ隠れてしまいました。(間)そして人魚は永久に海の都へは帰って来ず、海の都では行方知れずの人魚を浮気心だと云って憎みました。……歌の意味はこのようなものでござりましたが、母はこればかりを歌っておったのでござります。(長き沈黙)恐ろしいことでござりました、不思議なことでござりました。その人魚姫の運命が、さながらに母の身の上へ落ちて来たのでござります。(
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