らなく思うのでもなく、もっと高い感情でござりました。まあ云って見ますれば、形のない憧憬とでも申しましょうか、ただ心が或る美しい幻影を描き出し、その幻影を捉えようとあせるのでござります。
公子 (熱心に)その幻影と申すのは恋のことではござりませぬか。
女子 さようかも知れませぬ。(間)あの時の感情は、今思うたとて、とても思い出せるものではござりませぬ。(間)娘はただ恍惚として自分の影を見詰めておりました。(やや長き沈黙)そうすると、自分の影と並んで一人の男の影が砂の上へ映りました。娘は驚いて振り返りますと、若い騎士姿の音楽家が娘の直ぐ傍に立っているではござりませんか。(間)娘は一眼その姿を見て、心の中で「待っていた人影」ではないかと思いました。
公子 (忙はしく)その騎士姿の音楽家が、紅い薔薇の花を娘に送ったのではござりませぬか、その音楽家が。
女子 (頷き)紅い薔薇の花をくれる前に、その人は銀の竪琴で長い曲を弾きました。それは短嬰ヘ調で始まる「暗と血薔薇」の曲でござります。(公子思いあたると云う風をなす)それを聞いている中に、娘の心は夢よりも幽になり、意志も情も消えてなくなり、ただ一つ
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