派において皇道と称するはすなわち日本古代の慣例中かの官職世襲のことを指すがごとし、国に功労ある者は高位高官に上ること当然なり、その勢力をもって政府を立つること当然なり。民権自由の説のごときは日本に唱うべからず、以上は皇典論派の大意なるがごとし。さればこの論派は一の強大なる藩閥論派にしていわゆる最近の保守論派と見做すの価あり。今日にありて保守論派として算うべきものはまず指をこの論派に屈せざるべからず。然れどもこの論派は西洋に倣いたる法典編纂をもって至当のこととなす。これはなはだ奇たりと言うべし、この点においては自治論派と相和し、しかして他の諸論派よりは強大なる反撃を受く、いずれにしてもこれらは政論としての価はなはだ低しと言うべし。しかれども今日にありて保守論派の本色を保つものはこれよりいちじるしきはなく、将来に至りても保守主義を残すものはこの論派ならん、しかしてこれに次ぎて保守の傾きあるものはかの保守中正論派を然りとなす。吾輩は次章においてこれを略叙せん。

     第五 保守論派〔保守中正論派〕

 およそ論派の名称は大抵みな批評家のくだすもの多し、我は何種の論派なりと自ら名のる者ほとんどこれなきを常とす。政論の部類は泰西の学者その傾向につきてこれを四種に分かつ。すなわちラジカリズム〔急進論派〕、リベラリズム〔進歩論派〕、コンセルワチズム〔保守論派〕、アプソリュチズム〔守旧論派〕、この四種のものは学問上において区別するところの種類なり。いかなる論派といえどもはじめより自らこの部類を選みてその名称を取るものにあらず。その信ずるところの真理を主張して政論壇上に登る時は、批評家その傾きを見てこれに名称を付することこれその常例なり。今やわが国の政論派はすなわち然らず、その政論を唱うるや、まず自ら学問上の区別を見てその名称を選び、その名称に応じてその説を立つるもののごとし。ゆえに名称のために拘束せられてその信ずるところの真理を主張するあたわず、あるいは真理を主張してかえってその名称と齟齬《そご》するものあり。名を先にして実を後にす。ああまた奇なりと言うべし。かのリベラリズムに倣い進歩または自由の名称を選むものを見よ、彼すでに進歩と言う。ゆえにいやしくも進歩の名に反することは善となく悪となくこれを排斥す。彼すでに自由と言う。いやしくも自由の名を有することは利害邪正の別を論ぜずしてこれを取る。しかして進歩または自由のはたして何物たることははじめよりこれを講明せず。自ら保守論派と称するものはかのコンセルワチズムに倣うものなるや否や、吾輩これを知らざるなり、彼すでに保守というもの思うに必ずその実あらん。近時社会の風潮は滔々として改革に赴く。この時に当たりて「保守」なる名称は世人おおむねこれを忌避す。ひとり世俗の毀誉を顧みずしてあえて自ら保守の称を取るものは実に保守中正論派をもって然りとなす。
 世に奇傑の士あり、鳥尾得庵先生これなり。先生気高くして識深し。才文武を兼ねてしかして久しく時に遇わず。近時人もし晦跡《かいせき》の英傑を談ずれば必ず指を先生に屈す。先生つねに世運の衰替を慨し、かつて二、三子と大道協会なるものを興して儒仏の真理を講ぜんことを計る。これを先生近来の事業の端緒となす。すでにして世運正に欧化時代に際す、先生ますます回瀾《かいらん》事業の必要を感じ、まさに大いに道を弘めて時弊を匡救せんとす、当時政論の中衰せるに会し、欧化主義に反対して政論を立つるものは自ら政府の敵視するところとなり、政論社会は窃《ひそか》にこの論派の激烈なるを危ぶみ、なお第二期における民権論派を視るがごとくせり。しかしてその欧化主義に反対せしにもかかわらず世人いまだこの論派を目するに保守論をもってするには至らざりき。すでにして得庵先生は堀江、原田の諸議官とともに一派を立て自ら保守中正論派と称し、『保守新論』をもって機関となし、大いにその説を世間に弘む、ここにおいてか保守論派は明らかに世の認むるところとなり、政論社会の一方に割拠して少なからざるの勢力を有す。
 保守論派ははたして保守の実を備うるか、泰西にいわゆる保守なるものは自由平等の原則を軽んずること、これその特性の一なりとす、わが邦保守論派ははたしてその実あるか、得庵先生の著『王法論』にいわく、
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 均しくこれ人なり、豈に君民の別尊卑の等ありてもってその人を異にせんや、そのこれを異にするゆえんのものは他なし、その徳を立つるがためのみ、その道を修むるがためのみ、徳立たざれば君君にあらず、民民にあらず、道修まらざれば父父にあらず、子子にあらず云々。
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 先生すでに天地平等万物一体はじめより高卑物我の分あらざることをもって理説の根本となす。平等を本として差別を末とすることほとんどかのルーソーの『人間不平等原因論』に似たるものあり。またその法原の章にいわく、
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 ここに人あり、同類相集まり同気相求め一地に拠りてもって生業す、これを国という、しかして国人みなその幸福を享けんと欲すれば、必ず相利して相害せざるの理によらざるを得ず、これを倫理という、倫理すでに明らかなり、これを文に掲げもって国家の大法を定め、もってこの民の幸福を保つ、これを法憲という。
[#ここで字下げ終わり]
 法憲を解することかくのごとにして、しかして不正の法、不能の人を説きて以為らく、「その法を犯さざればその身を安んずるあたわず、その人を去らざればその命を保つあたわず、これ人その人にあらず、法その法にあらず」と。なお一歩を進めていわく、
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 このゆえに国を治むる必ずその法ありて後にその人あり。必ずその職ありて後にその権あり。その人のあるゆえんのものは何ぞや、民人これを許せばなり。その権あるゆえんのものは何ぞや、民人これを托せばなり。〔中略〕国君自ら貴きあたわず、その貴きゆえんのものは民人これを愛せばなり、それ民人のその君を愛するゆえんのもの豈にひとりその君に私するものならんや、また自らその性命を愛し自らその幸福を望めばなり。
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 これによりてこれを見れば自称保守論派の論旨は泰西学者の社会契約の論に近似し、ほとんどかの自由論派または改進論派の上に凌駕するの進歩主義なりと言うべし。
 彼また主義の章において以為らく、「諸法己によりてもって生ず、ゆえに自由と謂い、諸法己によりて存す、ゆえに自主と謂う、自由なるものは身心の主にして彼我の性法なり、自由なるものは世間の義にして自他の常情なり」云々と。これ人民の自治を説きもって立法の一人に私定すべからざるゆえんを言うなり。しかしてこの政論派は立憲政体の至当を認め自由制度の至理を認め毫も旧時の慣例に固着するところあらず、しからば自ら保守と称すといえどもその実はむしろ激烈なる進歩主義と言わざるべからず。しかれどもその自由自主の理を推してもって痛くかの欧化主義に反対して自ら保守論派と称し、つねに儒仏の道を唱えて妄《みだり》に泰西の学説を口にせざるがゆえに、俗人は誤りてこれを保守論派と名づけたるに似たり。名実の相合せざるや誠にかくのごときものあり。世に一家の見識なくわずかに泰西旧学者の説を借り来たりて陳腐の政論を綴造《ていぞう》し、自ら称して自由論派または進歩論派となすものあり。かくのごときものはこの保守論派に対してはなはだ慚色なきあたわざるべし。ただ泰西事物の名をもって斬新の標章となし、東洋の事物を挙げて取捨なく排棄するの時代においては、これらの無識者流もまた時好の厚遇するところとなるのみ、滔々たる社会豈に他の理由あらんや。
 吾輩は政論考を草して保守中正論派に至り、編を重ぬることすでに十七、最後において吾輩の持説たる国民論派を略叙せんと欲す。吾輩はここに至るまで実にまったく批評家たるの地位に立てり。しかれども国民論派を吟味するに当たりては理において自らこれが批評家たるあたわず、むしろその説明者または代表者となりて順当にこれを述べざるを得ず。保守論派と国民論派とは欧化時代においてともに現出したりしといえども、元来この二派はもと同根のものにあらず、その欧化主義に反対するや、保守論派は自主自由の理をもってその論拠となし、しかして国民論派は国民の天賦任務をもってその本となす。一は主として国の権理を全うせんがために起こり、他の一は権理を重んぜざるにあらざるもむしろ国の義務を全うせんがために起これり。二者もとより反対にはあらざるも、その差違を言えばややかくのごときものあり。吾輩は保守論派をもってこの篇の終尾となし、さらに「国民論派」と題してこれが補遺とし、もって政論考を完了せんと欲す。

     第六 国民論派

   国民的精神
 国民的精神、この言葉を絶叫するや、世人は視てもってかの鎖国的精神またはかの攘夷的精神の再来なりとなせり。偏見にして固陋《ころう》なる者は旧精神の再興として喜びてこれを迎え、浅識にして軽薄なる者は古精神の復活として嘲りてこれを排したり。当時吾輩が国民論派〔あえて自らこの名称を取るにあらず、便宜のため仮りにこれを冠するのみ〕を唱道するや、浅識者、軽薄子の嘲りを憂えずして、むしろかの偏見者、固陋徒の喜びを憂う。何となれば国民論派の大旨はむしろ軽薄子の軽忽に認むるかの博愛主義に近きところあるも、反りて固陋徒の抱懐する排外的思想には遠ざかるをもってなり。吾輩は今ここに国民論派を叙するに当たり、かの軽薄子のため、またはかの固陋徒のために、まず泰西において国民的精神のいかにして発達せしかを略説すべし。
   泰西国民精神の変還[#「変還」はママ]
 泰西の政学者はみな揚言していわく、近時の政治はすなわち国民的政治なりと、この語簡なりといえどもその旨や遠しと言うべし、いわゆる国民的政治とは外に対して国民的特立および内に向かって国民的統一を意味するものなり。この一点においても世人は「国民論派」の実に最新政論派たることを知るに余りあらん。いかにして泰西近時の政治は国民的政治たるに至りしか、吾輩の見るところによればそのここに至るまで三段の変遷を経過したるがごとし、何をか三変遷という、いわく、〔第一〕宗教的変遷、〔第二〕政治的変遷、終りに〔第三〕軍事的変遷、吾輩請うこの三遷を左に略叙せん。
   その宗教的変遷
 国民と言える感情は合理の感情なり。欧州においてこの感情の発達はなはだ遅かりしはいかなる原因によりしか、史学家の説によればかのキリスト教の勢力をもってその因となす。宗教革命の以前にありては、宗教の感情は愛国の感情よりも非常に強かりしこと何人も知るところのごとし。この時に当たりキリスト教を奉ずる者は国の異同を問わず互いに相結托して強大なる団体を作《な》し、もって国家法度の外に超立するのありさまなり。されば仏国人民にして宗教のためその国に叛きあえて隣国のスペインに合同するあり。ゲルマンの公侯にしてその国皇に叛き救援をその同宗教国の人民に請うあり。宗教上の統一、むしろ宗教上の専制はほとんど国民と言える感情を破壊し、政府なるものはただその空名を擁して実権を有せざるに至る、この無政府的禍乱に反動して起こりたるものはかの宗教革命なり。宗教革命は教権の統一および専権を破りて信教自由を立つ、信教の自由すでに立ちて教権ようやく衰え、しかして国民的感情ははじめてふたたび人心に萌す。これを第一の変遷となす。日本近時の政論派にしてキリスト教と抱合し、あえて国民的感情を嘲る者は、まさに泰西百年前の政論を復習するに過ぎざるのみ。しかしてこの輩は自ら称して進歩と叫ぶ、吾輩はこれを呼びて泰西的復古論派といわん。
   その政治的変遷
 欧州人はすでに宗教上の圧制を破り外部に対して国民的精神を回復せり。しかれども当時の国民はなおその内部における統一を失い、権力の偏重によりて政治上の圧制を存す。ここにおいて人民はこの第二の圧制を破ることに向かいたり。八十九年における仏国大革命は実に国民的感情の第二変遷を来たせり。この革
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