法学論派に至りてはすなわち国権論派の胤流として、おもに国法の改良を目的とし、かつ泰西における近世法学の歴史的思想に感染するところの改革論派なり。この論派にいちじるしき点はすなわちこの歴史的思想にしてその結果としては他の自由・改進の両派に反対し、むしろ帝政論派と相近くして漸進主義を取るものに似たり。しかれども帝政論派のごとくに現実的利害のみには固着せず、権義に係る理想よりして国家の権力と個人の権利とを両《ふたつ》ながらこれを認め、かの仏国の革命主義を攻撃しつつ一方には国家権力の鞏固をもって個人の権利を保護することを説くものなり。彼かつて法理の上より主権在君論を主張し、もって帝政論派の主義を賛助したるは当時にありてすこぶるいちじるしきものあり。彼かつて法理の上より君主政体の正しきを説き、共和主義の臭味を排斥せんと試みたり、彼かつて天賦人権論を説きて世の純理民権説に反対したり。しかれどもこの論派は経済論派に比すれば反りて熱心を欠き、いまだ世人に対してその主義の全豹を示したることあらず、思うに英国風の法学者はまったく政界と相隔離し、政論派としては経済学者に比して大いに譲るところあり、当時日本の法学論派は実にこの風に倣い、法学をもってほとんど世外の事物となし深く顧みざるの傾きあるがゆえならんか。

    第四期の政論

     第一 最新の政論

 政界の実地問題にしてもっとも大なるものは、当時にありて新憲法編纂の事業なりき。伊藤伯はこの大任を負いて欧州に旅行し、十八年に至りて帰朝せしが、時勢の必要を感じて従来の大宝令的官制を廃し、新たに西洋に倣いて内閣を置き、伯自らその首相となりて大いに更始するところありき。けだし立憲政体の準備をその口実となす。伯すでに内政の更始に当たれるが、その同僚たる井上伯は当時の任にありて、かの維新以来の大問題たる条約改正の業に鞅掌し、着々歩を進めて外交的会議を東京に開くに至れり。二伯の事業は実に維新以後未曽有の大業にして、政府はこの業のためにはほとんど何事をも犠牲にするの傾きありき。さきに伊藤伯が欧州を巡遊して憲法取調べをなすや、かの立憲帝政国として王権の強大なるドイツ帝国をもって最良の講究所となしたるは何人も知るところなり。時あたかもドイツ大宰相ビスマルク公が東洋貿易策に心を傾け、汽船会社を保護して定期航海を奨励し、もって英仏と競争を試みんとするに際す。伯の旅行はビスマルク公のためにこの上もなき機会となりしがごとし。さればドイツ政府は伯のためにでき得るだけの好意を表し、この機に乗じてドイツの勢力を日本に及ぼさんことを計画したるや疑いあらず、憲法編纂の顧問数名はドイツより来たれり、法典編纂の顧問数名はドイツより来たれり、法科大学の教師はドイツより来たれり、しかして条約改正の業もまたドイツ政府において隠然これを賛助するの傾きさえありき。
 日本はすでにドイツ風なるものの流行を感じたり、しかのみならずかの井上伯はその重任たる条約改正を成就せんには欧州各国の風習を日本に入れ、欧州人をして日本をその同情国なりと思わしむるの必要を感じたり。かの十七年における清仏の戦争は、伯これを視て東西両洋の優劣を示せる最近の例証となし、とうてい尋常の手段にては外国と同等の交際をなすあたわずとや思いけん、まず日本国民を挙げて泰西風に化成するにあらざれば樽俎《そんそ》の間に条約を改正すべからずとまでに決心したるがごとし。ここにおいて日本の上流社会は百事日本風を棄てて欧州風に変革し畏《かしこ》くも宮廷内における礼式をさえ欧州に模擬したりき。これ実に明治十七、八年より二十年に至るまでの事情にして、吾輩これを欧化時代と称すべし。第三期の政論派が第四期に移りたるは実にこの時代にあり、この期の政論状況を汎叙すれば誠に奇怪なる変化を見るに足るべし。いかに変化せしか、いわく第三期において保守派とまでに称せられたるかの帝政論派は一変して欧化論派となれり。いわく前期の激進派たる自由論派はこの時において反りて保守論派となれり。いわく改進論派の一部は欧化論派に傾き他の一部は保守論派に傾きたり、これ豈に政論の奇変にあらずや。
 もし文明進歩と言えることを解して泰西風に変化することとなさば、当時の政府ほど「進歩主義」なりしものはいまだこれあらざるなり。もし進歩主義と言えるものがただ泰西の事物または泰西の理論に模倣するの主義を意味するならば、今の進歩主義と自称する論派は当時にありて双手を挙げて政府の方針を賛頌せざるべからざりしならん。しかるに自由論派または改進論派は毫も賛成を表せざるのみならず、反りて痛くこれに反対したり、しかして「保守主義」と呼ばれたる帝政論派の遺類、たとえば『東京日日新聞』のごときは大いに政府を賛助したることこれはなはだ奇なりと言うべし。人みなかの帝政論派は政府賛助派なりと。あるいは然らん、しかれども吾輩はこの篇においてその裏面を探るものにあらず、もし裏面を穿ちしならば当時の自由論派または改進論派は政府攻撃派なるやも知るべからざればなり。しからば当時政論派の変化は表面よりして奇観を呈したりというもとより可なり。しかれども当時の政府は主としてドイツ風を模擬せり、改進論派のこれに反対せしはその英国風ならざるをもってなるか、自由論派のこれに反対せしはその仏国風ならざるをもってなるか、少なくも、王権の強大が英国風に反しまたは貴族の爵号が仏国米国の風に反すとの点をもって、二論派はドイツ風なる政府に反対したるか、はたしてしからばこれ国風の争いなり、いわゆる欧化主義においてはみな同一なりと言うべし。
 この紛々たる時に至りて一の新論派は出でたり、すなわち国民論派または国粋論派または日本論派と称すべきものこれなり、この論派は実に当時の流勢に逆らい、泰西風の模倣をもって実益および学理に反することとなし、深く国民の特性を弁護したるものなり。この新論派に正反対をなしたるものは第三期の末に起こりたる経済論派にして、これに味方をなしたるものは法学論派なり。しかして旧論派たりし自由論派は味方とまでにならざるも反対にはあらず、改進論派は正反対にはあらざるも側面より反対を試みたるは明白なりき。帝政論派の遺類にして欧化論派とも称うべきは国民論派に対して理もとより正反対の地にありといえども、彼ドイツ風の歴史的論派に多少の淵源を有するがゆえに、この新論派に対してはあえて正面の攻撃をなすあたわざるがごとし、これを当時における最近諸論派の関係とす。
 論派たる価なしといえども通俗の便としてなお掲ぐべきものあり、いわく大同論派、いわく自治論派、この二論派は実に論派として掲ぐるほどの価なし、何となれば理論上においてはいかなる抱懐ありしやを知るあたわざればなり。ゆえに強いてこれを論派と見做しここに列記せんと欲せば自治論派はこれを旧帝政論派の遺類たる欧化論派の中に算うべく、しかして大同論派はかの自由論派とその形を異にせしものに過ぎずと言うの外ならず。次に最新の論派として算入すべきものはいわゆる保守論派を然りとなす。保守論派の中にもまたほとんど二種の別あることを見る。すなわちもっともいちじるしきは保守中正論派にしてこの論派は実にかの国粋論派〔適当に言えば国民論派〕より分かれたるものなり。その次に来たるべきは皇典保守論派とも言うべきものなり。この論派は自治論派とその根源をともにし旧帝政論派の遺類の一種なりとす。今便宜のために前期と関連してこの第四期政論の名称を左に掲げん。
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     〔第四期〕      〔第三期〕
(一)自由論派 〔旧〕┐
           ├     自由論派
(六)大同論派 〔新〕┘
(二)改進論派 〔旧〕      改進論派
(三)経済論派 〔旧〕      経済論派
(四)法学論派 〔旧〕      法学論派
(五)国民論派 〔新〕      未成
(七)保守論派 〔新〕      未成
(八)自治論派 〔新〕┐
           ├     帝政論派
(九)皇典論派 〔新〕┘
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 発生の順序をもってすれば頭上に冠したる番号のごとしといえども、もし前期との関係をもってすれば実に右に掲げたるごとく、おのおのそのよりて起こるところあり。しかしてまったくこの最後の期において新たに発生したるものはただ国民論派〔または国粋論派〕および保守論派の二派に過ぎず。しかれども吾輩はこの新論派を叙するに先だちて名称の新しき他の三論派すなわち大同論派、自治論派、皇典論派を略説せんと欲す。この論派がいかなる主義を保有するかは吾輩これを知るあたわずといえども、その政論上における傾向はややこれを窺うことを得べきなり。請うその大略を吟味し去りて相互の関係を明らかにせん。

     第二 大同論派

 大同論派は自由論派よりきたるものなるや明白なり。しかれどもその旨とするところはただ藩閥政治を攻撃して政党政治を立つるにあり、しかしてこの目的を達するには理論上の異同を棄てて事実上意見の大同を取るべからずと言うにほかならず。かくのごとくその論基はただ現実的問題にあり、これをもって一の論派として算するにはすこぶる難し。もし強いてこれが理想を探らばやはり自由論派の思想と同一ならんのみ。されば吾輩はここに理想を探ることをなさず、単にこの論派の傾きが当時いずれの論派に近かりしやを一言せん。彼実に自由論派よりきたる、ゆえにその傾向は自由論派を近しとすることこれ自然なり。しかれども自由論派の深奥なる理想は彼毫もこれを継承せざるのみならず、かえってこれに反対したるがごとき傾向あり。彼自由主義をもって非藩閥主義となすのみ、自由平等の理を取りて世界共通の人道となすがごとき理想は彼さらにこれを抱懐せず。ただ国権を拡張するの一事に至りては自由論派より継承したるがごとくなるも、その主旨はすなわち大異同あり、国権拡張は自由論派にありて個人自由を伸張する方法なれども、大同論派にありてはやはり国民の利益および名誉を計るにほかならず。彼また痛く政府の欧化主義に対して反対し、泰西模擬の弊は一国の滅亡に係るとまでに攻撃したり。この点においては新論派たる国民論派とすこぶる相合し、大同論派の代表者たる後藤伯が当時すなわち十九年二十年の交において国民論派の代表ともいうべき谷子と偶然にも条約問題に反対せしはいちじるしき事実なりとす。藩閥政府を非とするの一事をもって政論社会を動かしたることは、政論ありて以来いまだ大同論派より強大なるものあらず、吾輩は非藩閥論派としてこの功績を認むるに躊躇せず、しかして二十二年の条約問題に付いてもこの論派の勢力少なしとなさず、吾輩はこの点において国権論派の一種となす。

     第三 自治論派

 前期において帝政論派と称するものは実に二個の分子を包含せり。その一種なるドイツ帝政崇拝主義の論者はこの期に至りてまったく欧化主義を賛成したり、世に称する自治論派と言うはすなわちこれなり。自治論派は何の理想もなきもののごとし。ただ西洋と対等の交際をなさんには日本を西洋の風に陶化せざるべからず、西洋の風に陶化せんためにはまず人々が自らその財産を殖して生活の程度を高めざるべからず、人間万事金の世の中、道徳節操のごとき権利名誉のごときみな金ありてはじめてこれを言うべし、金なきものはともに国政を議すべからず、金を貴くするには奢侈を奨励せざるべからず、以上は自治論派の大旨なるがごとし。この点においてかの経済論派または改進論派とややその傾きを同じくし、自由論派、大同論派、また国民論派とは氷炭相容れざるの関係あり。この点においてはほとんど第一期の国富論派を再述するものにして西洋崇拝の一事は経済論派の一部たるキリスト論派に賛揚せられ、金銭崇拝の一事は経済論派そのものに賛揚せられたるがごとし。自治論派は政論と言わんよりはむしろ一種の経済論と言うべし。

     第四 皇典論派

 皇典論派もまた旧帝政論派の遺類にして皇道をもって天下を治めんと欲するものなり。この論
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