なく読ませたのだ。実に何ということか。瞬間、これは天祐ともいうべきいいチャンスだぞと彼は思ってしまった。キリストの復活だとも考えた。たとえ学芸欄の一隅の小さな活字とはいえ、彼とはそれこそ本当に並々ならぬ親交のある、東京文壇の作家田中が、満洲へ行くついでに京城へ立ち寄って朝鮮ホテルに投宿しているということをそれは知らしていたのだ。
「行かねばならん」
 玄竜はぶるっと身をふるわせて立ち上ると、一旦重々しく肩をすくめ出口に向って南京虫のように動き出した。彼には固く念ずるところがあったのである。丁度行きしなにコーヒーを運んで来る女の子とぶっつかりそうになると、ひったくるように茶碗を捉え上げて熱いのも構わずぐいぐい飲み干し、呆然となっている女の子や調理人達を尻目にあたふたと出て行くのだった。
 本町通りはいくら午前中でも明菓あたりから通り出口の方にかけては、人々の群でいつも氾濫する程に雑沓する。そそっかしく下駄を鳴らして歩く内地人(日本人、以下同じ)や、口をぽかんとあけて店先を眺める白衣のお上《のぼ》りさんや、陳列窓に出した目玉の動く人形にびっくりし合う老婆達や、買物に出掛ける内地婦人、ベルの
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