法蓮華経という念仏が、太鼓や木魚の音にのって海のように彼の周囲に拡がってしまった。彼はその中を恰も泳ぎもがきながら救いを求めるように慌てふためきつつ徨《さまよ》い廻った。だが迷路は思いのままにぐるぐると筋を引いているので、どんなに歩けど歩けど果しがない。混乱の中ではあるとはいえ、玄竜は極度の焦躁に追いたてられて、あー坊主共のお経や念仏が一斉に僕を呪って追い廻しやがるぞと叫びつつめちゃめちゃに走った。それで躓《つまず》いてどさりと倒れることもある。のそのそと又這い上る。こうして彼は目だけを赤々と燃えたぎらせ狂った泥牛のように怖ろしい恰好になった。だがその実今度こそお経や念仏のただよう海風にあおられて、ふわりふわり天上へ上って行きそうな気になった。ところがそうではない。彼の心の真底《しんそこ》ではちゃんと自分が娼家界隈へはいっていることを知っているのである。本当は自分の泊ったことのある家々をあがきつつ捜し廻っている訳なのだ。けれどどこにもかしこにも同じような赤や青のペンキを塗りたくった家ばかりで、折からざあっと土砂降りになった雨の水煙りにけぶって見えなくなる。彼は腕を振り上げて何かを二言三
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