のである。事態がこうなってみると、玄竜はその命令に背《そむ》く訳には行かなくなったのだ。いよいよこの二日の中に出掛けねばならなかった。それ故この際東京の作家であり又大村と同窓でもある田中が来城したことに一切の望みをかけ、自分が自由に足を伸ばし得るように、いろいろと大村を彼から口説いて貰おうとする訳である。だからパリ娘のアンナに会った以上に重大であることはむろんだった。
「僕はこれから田中君を捜しに鐘路裏へ行くのです。さあ一つ出掛けましょうか」
 と、玄竜は急に元気になってトーストを一度に二片も口に突っ込みながら尻を上げた。
「あたしも行きますわ、……あ、それいいわよ」
 と云って、女流詩人は彼の手から勘定書をもぎ取って立ち上ったが、どうしたのか急に表情が強ばって石のように固くなった。間もなく彼女は少しばかりおずおずし出した。おやっと思って玄竜が振り返って見れば、入口のところに角帽を目深く被った背のひょろっとして高い大学生が蒼くひきつった顔をして突立っていた。そしてじろりと玄竜を睨んだ。その時急に悩しげなスペイン民謡のレコードは止り、人々の視線は一斉にこの三人の方へと向けられていた。文素
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