話をしたいためとかく多少わざとわきへそらしたのである。
 さて、これで人物画といふものが、美術の上で殆ど最も重きをなすものだといふ事を説明したが、その人物画の中、何と云つても婦人は、「美」に歩近《あゆみちか》いだけに、古来、男の画よりも御婦人の画の方がどうしても一般に気受《きうけ》がよろしい。
 よく男性美などと云ふ事を云ふ。しかし、所謂男性美といふものは、どうも少し粗野で簡単で、概念的になりやすい。私は画家として男性美といふ語はあまり好まない。
 男性美といふ考は、婦人美又は曲線美の持つ、「綺麗」とか美くしいとかいふ、美の通俗性に対してその逆を行つたもので、力の美といふ事を、綺麗とか、優美とかいふ事より一層、高踏的なものと考へたものである。
 しかし、「力」の美といふものは必ずしも、綺麗とか優美とかいふ美よりも高踏的なものとは云へない。又綺麗とか優美とかいふ事は必ずしも、通俗な美でもない。力の美にしても又は優美な美くしさにしても、只大切なのはその美の内容である。美はその表はれる形式の性質によつて必ずしも深浅を定められない。美そのものが深ければ、如何なる形式に於て表はれても深いのである。只綺麗とか優美とかいふ事は、美の表はれ方に於ては最も普遍的であつて、分りやすいものであるため、大体に於て、美術に於ける最も深い感じは「綺麗」とか優美とかの美の他に於て表はされる場合が多い。しかし、必ずしも絶対にさうなのではなく、フロレンスの古い大家のフラアンヂエリコとか、レオナルドの素描《すがき》とか、支那の古大家李竜の或る画などは、一見して優美に、端麗で、美くしいものでありながら而もその深さは世界に幾つといふ程の深さを表はしてゐる。
 だから、必ずしも、綺麗なものは浅いといふ事は云へない。力の美といふ事は、綺麗といふ事から見ると一歩、美の形式としては進んではゐる。つまり幾分専門的な審美感がないと分りにくい美的要素である。しかし、それだからとて、力の美が綺麗の美より深いといふ事は云へないのは前述の理由で明かである。
 のみならず、力の美といふものは、綺麗とか優美とか云ふものよりは、美の形式としてずつと、局部的な、そして狭いものであるだけに、どちらかと云ふと、力の美だけで独立して最も深い美的主観を表はすといふ事はむつかしい事になる。だから、その主観さへ深ければ、力の美でも最も深いものを
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