表はせると云ふ事は理窟では云へても、実際では、最も深い美的主観へ力の美をとの美的形式の主とする事はまづない。客として用ゐる事はあるけれど。
 要するに、美の最も深い感じは、「静寂感」又は「無限感」にあるのだから、「力」といふ様な多少でも動的意義のあるものは最後の美の主的形式となるには応はしくない。これに反して、綺麗とか優美とか云ふ様なものは、静寂にずつと近い素質を持つてゐるので、最高の美感の形式としてはずつと適当なものであると云ひ得る。
 かういふ理由からみても、男性美といふものが、深い美と大した交渉がないと云ふ事が分るが、更に、この力の美がよし、最高の美は表はすに応はしいものであるといふ事に仮定したとしても、この男性美といふものは必ずしも本当の力の美であるか否かには多くの疑ひがある。
 所謂男性美といふものゝ意味する「力感美」といふものに内容は多くの場合甚だしく粗漫で雑駁である。「力」といふ事の解釈が極めて通俗的で表面的であるのが甚だ多い。
 本当の力の美といふものは、必ずしも強さうな筋肉とか、肢体とかに宿るものではない。それは、「力の概念」であつて力の美ではない。力が美となつたものが、力の美であつて、「力」といふ概念は美でも何でもない。多くの男性美と云はれる、考へにはこの概念的な力を、直に力の美と混同したものが多い。それ等には多く、筋肉の力感の誇張、力にみちたる如き肢体等をみるがその意図は、多く、美に列する理解が概念的で浅薄である。
 仁王様などといふものにしても、どうもいゝものは少い。これは必ずしも男性美といふ様な概念から生れてはゐないが、その美的意図が「動」の美にあるだけに、どうもしんみりした美の安定の気持を欠く。これに比して仏像は、その本体は大体に於て男性である可き筈であるのに、静寂とか無限とかを表はすために多くその形式が優美端麗柔和等の女性美又は曲線美をとつてゐる。
 ミケルアンヂエロの彫刻や壁画等は、さういふ風なところがあるのでどうも余の審美感を満足させない。ミケルアンヂエロは無論相当偉大な人間にはちがいない、しかし、私は、芸術には更にもう一つ深いところのある事を他の芸術家たちによつて教へられる。
 ここに男性の肉体を描いて、而もその力感を描いて、それが実に深い美をして表はされてゐる画がある。即ち、レオナルド・ダヴインチの背向きの男の裸体画であるが、こ
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