更にレムブラントになるともし天人というものが、仮にあるとして、それが姿をあらわしたらこうもあろうという風に、つまり、実写的天人がかいてある。
[#挿絵(fig46521_02.png)入る]
 ヨセフだったか何だか忘れたが二人の老夫婦? のようなもののところへ現われている天使は、その体が透きとうていて背景の物体がみえている。正に幽霊の如く、足もあいまい[#「足もあいまい」に丸傍点]になっている。
 これらの事に関する美術上の批評は本論でないからわざと省いて、ともかくも、芸術というものは後世になるに従い、つまり人間の科学的になるにしたがって、実写的になりたがる(写実的ではなく)。活動写真がよろこばれるのはその理である。
 それで幽霊も、古い絵巻等には足のある、常人とかわらぬものが描いてある。菅公《かんこう》が幽霊となって、時平《ときひら》のところへ化けて出るところをかいた、天神|縁起《えんぎ》の菅公の幽霊は、生前の菅公をそのままにかいてある。
 そこでここに一つの断定が出来る、つまり幽霊というものを本当にモティフにしたのは、つまり独立して、幽霊の幽霊らしさをモティフとしたのはどうしても
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