でに、何か人外の異常なる恐ろしきものを恐れる本能を持ち、同時にそれを想像する事も一つの本能となったように思う。だから恐ろしいものが来ない時でも、いつもそういうものを恐れ、考える事をしているので、暗い闇《やみ》の中とか、大樹深山の中とかへ行く時は必ず、そういう、「魔」というものを想像する。それは一つの本能と見る事が出来る。
妖怪というものは、だから、一つの人間の生物的本能として存在するものという事が出来る。同じ理由によって、妖怪というものは客観的存在でないということも出来る。
幽霊に足のない訳
附 妖怪に足のある訳
幽霊に何故足がないか、尤も、幽霊に足のなくなったのは徳川中期以後だという事だ。それ以前の絵などには幽霊にも足がかいてあるという事を何かで読んだ事がある。
しかし、幽霊の絵としては、足のあるのは本当らしくない。妖怪だと足があるのは不自然でないけれど。
何故徳川中期以前の幽霊に足があって、それ以後に足がなくなったかというと、徳川中期以後は絵画のみならず凡《すべ》ての芸事が実写的(写実的という語と少しちがう、何でも、本当らしくという、自然主義的とい
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