ないという方の人間にはどうかすると、意志の強い、他人が少しは嘘と知りつつも面白さに引かれて怪談でもしている時に、その嘘の方を少し大げさににくみ、興味に遊んでいる方を楽しまない底《てい》の意地の悪さがある。つまり昔の堅人とか、水野|越前守《えちぜんのかみ》式の人にはそういうところがある。しかし何といっても、化け物は無いという方の人物にはしっかりしたところのある事は争われない。
 君子というものは水野越前式な他人をゆるさない底のものではないが、しかし、和して同せず、真を愛し、嘘をいやがり、そういう感情的な事よりも理性を重んずるから、勢《いきおい》、お化けの談などはしなくなる。
 ましてそれが人心を迷わす、昔時にあってはこれを一つのいましめとしたのは正に当を得た事で、この一言の中には這般《しゃはん》の消息が感じられるように思え、孔子様を今更深い主観を持った人だと感心する次第である。
 しかし、それにもかかわらず私は怪談という事には或る興味を持つものである。私は御化けのあるという事はまるで信じていない。また戯談は別として、他人に御化けのあるという事を話す事もしない。
 しかし、怪談をやる事、聞
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