というようにも考えられるが私の考としてはそれは少し概念的な考え方だと思う。勿論そういう点もあろうが、私にいわすと、きみ悪いものを描こうとするとどうしても「病人」の感じとなり、デカダンスが形をとろうとすればどうしても、この世に現在する生存上のデカダンス、即ち、病気とか、奇形とか不具とかの形而《けいじ》と一致して来る。それが一つの形而的法則であるという風に思える。
 日本妖怪の味は、生きものの、きみ悪さというものを生かしている。人は美人の髪をみて甚だ美くしいと思い、その腕をみてはなやましくも思うだろうが、もし、如何に美人のでも、髪が切って落ちていたり、腕や足が離れてそれだけあったりしたら正にきみの悪いものである。離れて落ちていないでも、ただ腕や、足というものなどだけじっとみているとへんに生きもののきみ悪さがある。そのきみの悪さを日本妖怪の作者は掴《つか》んでいるのである。
 壁から手の出る話は『旧約聖書』にもあるが、日本の便所や天井から出る手は正に凄い。例の『四谷《よつや》怪談』では御岩《おいわ》様の幽霊は概念的作品であまり凄くない。凄くしようという意図の方が凄さの実想より先に見えるからだ
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