の味を味識していないのである。
 一つ目小僧というものを、普通にとりあつかっているよりもっと進んだ感覚でとりあつかってみる時、即ち、もっと、リアリスチックに、生きたものとして感じてみる時、皮膚を持ち肉を持った生きたものとして感じてみる時、それは誠にきみのわるい、生々しい、そしてミスチックな生きものである。
 一つ目小僧を滑稽なものと感じる感覚は一つ目小僧を生のものとして感じず、張子《はりこ》か何かの細工ものとしてのそれを考えているからである。三つ目小僧の如きに至っては、一つ目小僧の如く実感から生れたものでなく、一つ目に対して、三つにしたものか、普通人の二つ目に一つを加えてこしらえた、考案から成り立った概念的なもの故、それはどうしても張り子のでく[#「でく」に丸傍点]のような感じがともなう。まして、ろくろ首にしたり、鉄棒を持たせたり大入道《おおにゅうどう》にして、ラングイヒゲを生やしたりすると一層滑稽になる。
 一つ目の味はぬるりとしたちょっと奇形児の如《ごとく》なきみのわるいところにある。一体日本の妖怪の凄さはそういうところにある。この事は後項にややくわしく考えよう。
 ともかく一つ目
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