すびつけてそうみていたものという事が解った。
そしてその時私は、なるほど、幽霊には足がないなと思った。何故なら私のみたそれは、頭と手と胸の辺だけであとはボーッとしていたからである。
この事が幽霊が主観的のものだという事の一つの証拠にもなるのだが。人は誰でもその知人の事を考え、その知人を思い出す時胸から上を考えるのが当然で、その人の足を考える人はめったにない。特に足に異常のある人とか、ともかく足という事に特異の注意のないかぎり、人はその人の胸から上を思う。
この事が幽霊に足のない理由で、幽霊を幽霊らしい感じに描こうとするものはどうしてもその実感を実写的に写さねばならぬのである。
次にそれなら何故妖怪には足があるか、三つ目入道、河童《かっぱ》、天狗等のポピュラーなものから、前述、あかなめ、こだま、かあにょろ、朱《しゅ》の盤、等の特殊な妖怪に至るまで皆、五体をそなえた現実的な姿をしている。かまくら時代の百鬼夜行の絵巻物には、この妖怪がへんに生々《なまなま》しくかけているが、皆足を持ち、様々な姿態をつくして活動している。
これらの画は、つまり一つの「怪」とか、「鬼気」とかいう無形の実
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