》で非人情な妖怪の方がなんとなく幾分でも存在性が強いと思う。
尤も幽霊に出られてはかなわないが、幽霊に出られたよりも妖怪というものに出られた方がもっと、徹底的な恐怖を味う事と思う。妖怪はどうしても一種のニヒリストだ。
尤も狐狸《こり》妖怪といって、妖怪の或るものは多く狐狸その他のけものの神通力によって変幻する現象とされてある事もある。しかしまたそうでなく妖怪は本質から妖怪となっているものもある。一つ目、三つ目、大入道、見越入道等は狸の化けたのだとされる場合が多いが、前記のあかなめ等は本質的な妖怪らしい。
狐狸の化けたのでは御話しにならない、私のいうのは本質的妖怪の事で狐狸の事に関しては後項で私見をのべよう。
妖怪の存否とその起元
妖怪変化の起元は、元始人類が、他の巨大な動物、未知の動物、または自然の威力等に対して持った実感に基づくと思える。この事は私が今更《いまさら》言うまでもなく、定説となっているかもしれない。
ともかくも恐怖、人外の異常なるものに対する恐怖心は、人類以前の動物時代から持ち越しの本能となっていたものと思える。
だから人間は元始時代から既《す》でに、何か人外の異常なる恐ろしきものを恐れる本能を持ち、同時にそれを想像する事も一つの本能となったように思う。だから恐ろしいものが来ない時でも、いつもそういうものを恐れ、考える事をしているので、暗い闇《やみ》の中とか、大樹深山の中とかへ行く時は必ず、そういう、「魔」というものを想像する。それは一つの本能と見る事が出来る。
妖怪というものは、だから、一つの人間の生物的本能として存在するものという事が出来る。同じ理由によって、妖怪というものは客観的存在でないということも出来る。
幽霊に足のない訳
附 妖怪に足のある訳
幽霊に何故足がないか、尤も、幽霊に足のなくなったのは徳川中期以後だという事だ。それ以前の絵などには幽霊にも足がかいてあるという事を何かで読んだ事がある。
しかし、幽霊の絵としては、足のあるのは本当らしくない。妖怪だと足があるのは不自然でないけれど。
何故徳川中期以前の幽霊に足があって、それ以後に足がなくなったかというと、徳川中期以後は絵画のみならず凡《すべ》ての芸事が実写的(写実的という語と少しちがう、何でも、本当らしくという、自然主義的とい
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