ばけものばなし
岸田劉生

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)孔子《こうし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)水野|越前守《えちぜんのかみ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)一と先ずは[#「一と先ずは」に傍点]
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       *
 これは怪談をするのではない、ばけものについて、いろいろと考えた事や感じたこと等、思い出すままに描いてみようと思うのである。画工である私は、ばけものというものの興味を、むしろ形の方から感じている。そんな訳で、私の百鬼夜行絵巻も文の間に添えておこうと思う。

     君子は乱神怪力を語らず

 孔子《こうし》様は、君子は乱神怪力を語らずといわれた。さすがに深い深い実感から生れた話だと思う。
 乱神怪力を語るという事は、結局「嘘」という事に無神経だという事になる。
 妖怪変化《ようかいへんげ》というものは、「無《な》」いといってしまっては曲《きょく》のないものにはちがいない。人間というものは、何事でも面白い方が好きなもので、ばけもの等も、本当は、無いのだという事になる事はちと興ざめな話なのである。
 元来妖怪等というものは、人間の神秘的要求、恐怖本能、等から生れた空想を一層興味を以て潤色し工風《くふう》した一種の恐怖的な神秘詩なのだから、人間の一面には、この化物を愛好し、その存在を守ろうとする一種の本能的な気持があるものだ。
 それと同時に人間には、そういういわゆる乱神怪力を、信じない本能がある。信じまいとする本能は誰れでも気がつくが、それではなく信じない本能というものがあると思える。つまり「何だかおかしい。そんな理屈はどうもない」という、唯物的、合理性本能というようなものが、学ばずして人間にはあるように思える。昔、科学の力のなかった時代でもよく、賢明にして意志の強いような人物は、「世に変化《へんげ》の類《たぐい》あることわりなし」とか何とか明言しているが、その人が今日の唯物論を学んでいた訳はないので別に学術上の確かな論拠は持っていないはずである。しかしその人にとっては、それは実感であって、動かし難いものなのである。その人とても大木の下を通る時とか、その他恐ろしいところを通る時にはやはり実感的に一種の鬼気を感じたであろうが、それにもかかわらずその人は、世に変
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