く事は好きである。しかしそれは話として、それを味うのである。私は御化けというものは民族的、または人類の一種の芸術的な作品、一種の詩だと前にも述べたが、一つ一つの怪談に表われている様々な技巧や、様々な空想や、実感やらを味う事がすきなのだ。
 かなり技巧的なものもあれば本能的に実感的なものがある。実感的な奴は、ピリッと来るつまり、「怪」という一つの実感がよく掴《つか》んであって、またその「怪」の、感じの種類がピッタリ自分にも実感出来るものだったりすると、甚だ感心するのである。
 こういう意味で、遊びを遊びとして楽しめば、乱神怪力を語ったとてあながち非君子とされなくってもすむだろうと思っている。

     妖怪と幽霊の区別

 幽霊とは人間の化けたもので妖怪とは人外《じんがい》の怪《かい》である。
 幽霊は大てい、思いを残すとか、うらみをのこすとかいう、歴《れっき》とした理由があって出て来るのであるが、妖怪の方は、山野に出没する猛獣と等しく何らのうらみなしに、良民をなやまし、あるいはとって喰う等の残酷な事を行う。
 人に、君は幽霊と妖怪とどっちが恐《こわ》いといって聞くと大ていは幽霊の方がこわい、妖怪はむしろ可愛い気分があると答える。
 なるほど狸《たぬき》の化ける三目入道や、見越し入道の類には可笑味《おかしみ》も可愛気もあるが、しかし一つ目小僧の如きものが戸外から帰って来た自分の部屋などにだまって坐《すわ》っていたらかなりこわいものだ。
 私は幽霊などという事は無いと思うが、一種の「鬼気」という、主観上の事実は打消す事が出来ない。それは全然主観的なもので客観的には何物もないと知っていても、「鬼気」の感ずるものは外界にある。
 幽霊がないと信じている自分がふと何かの調子で、「鬼気」を感ずる時、感ずる対象はどうしても、一種の「怪《もののけ》」である。
 もののけとは、物の気、または物の怪であろう。ともかくも幽霊よりはもっと客観性に富んだ存在である。
 私は一つ目小僧だとか、あかなめ[#「あかなめ」に傍点](深夜人のねしずまった時に浴槽《よくそう》の垢《あか》をなめに出る怪)だとかいうような一種の妖怪がふと、どこかに在《あ》り得るような感じがするものである。それは無論感じだけの話だが、私には幽霊などという合理的性質の化けものよりはむしろ、怪物は怪物らしいこの出鱈目《でたらめ
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