していた狐つきなどの説話が、全く無意識の中に狂気と同時にその人の頭脳の中に一種の強迫観念となって生息し出し、その説話の命令通りに行為させる。
 この時は狐に化かされている時の状態と同じで丁度酔漢が酔った時に多《おおく》の人の為すべき行為を、自己命令でやる心理とよく似ている。狂人というものは無意識の中に、人とちがった事、狂った事を狂った事とする意識を持っているもののように思う。
 即ち狐つきが油揚げを急に好きになったり、大食をしたりするが、大食の方はそういう狂気の性質もある、だが油揚げの方は正に病気前の見聞が暗示となったものである。何となれば肉食獣である狐は必ずしも油あげを殊に好くものではないからである。
 とにかく狐が化かすという説は日本が主のようであるがその元は支那か印度あたりにあるものかもしれないがよくは知らぬ。
 心理学はちっとも知らないのだからちがっていたら御かんべん御かんべん。

     鬼について

 鬼というものは東西両洋、その他世界中に大ていあるようだ、多少ずつの変化はあろうけれど。
 しかし、支那における鬼の観念は支那らしいへんに実感的なきみのわるいものである、日本の鬼も、時代時代で大分その感じが変って来ているようである。
 鬼には、地獄に住んでいる一種の巡査としての鬼と、現世の深山、たとえば、丹波《たんば》の大江山等に住んでいるこの半人半怪の惨酷《ざんこく》なる奴と、もっと幽霊らしい、死して鬼となるといったような一種の悪霊としての鬼と、悪気災難、病気等をシンボライズする一種の悪鬼等があるようである。追儺《ついな》の豆に追われる弱い奴はこの終りの奴で、大江山の鬼などはなかなか豆位で、追っぱらわれそうもない。
 ともかくも「鬼」という感じは、たしかに人間の感ずる、一種の「気」である。兇事を喜び司《つかさど》る、一種の気である。「鬼門」とか、「鬼気」とか、または鬼界ヶ島とか皆その感じがある。
 私のみた夢に、鬼をへんに生々しくみた事がある。誰れでも、これ位リアリスチックな、生きものとしてこの鬼を見た人はあるまいと思う。
 人々は、鬼といえば大《た》いてい木で造ったような物体と考えると思うが、われわれと同じ肉体の感じを持った鬼を見た人はあるまい。私は夢ながらそういう鬼を見た、鬼とは正にその通りのものであろうというような鬼である。
 その夢はこうである。
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