、また全然狐が化《ばか》すという事実を知らぬ外国にもある現象にちがいない。
この状態に入るのは一種の催眠状態から入るものらしく、余の知っている某老人の仕立職《したてしょく》が、余が幼時の家である銀座通りの店へ入ろうとして、店の前まで来てどうしても入る事が出来ず行き過ぎ引きかえしてまた入れず、かくする事四回にしてようやく気がついて、「狐につままれ」たといいつつ入って来た事を覚えているが、これらは全く一種の自己催眠で、どうしても入れぬという観念を何かによって自己自身で自己に与えたためにそうなったらしい。
ともかく催眠術をかけるのは催眠状態に入らしめて、後に暗示を与え、その暗示通りになるというのだそうだが、この狐に化されるのもそれに適合している。即ち化かされるものは、狐が化るという事をどこかで信じているか疑っていてももし本当なら恐《こわ》いという恐怖を割に持っているかどっちかの人であって、そういう人が山道とか、畑道とかを通る。かねがね物の本でみたり人に聞いたりした狐に化かされた人の話やその痴態やらを思い出す。あの田の中へ入っておお深い深いといっていたそうだなど思っているところへ、狐か、狐に似た犬か何かがスッと飛び出しでもすると、もう完全にその人は自己催眠に陥る、すると、かねて人に聞いたり、または画本などで見ていた、狐に化かされた男女のいろいろな狂態が頭に浮ぶ、常は忘れていたような事まで、無自覚の中に頭に浮んで来る。そこで、それを一つ一つ、自分で実行しなくてはならない命令を全く無意識の中に自己が自己にしている。この事の証拠は狐に化かされた人の化かされた時にする狂態が必ず、一致している。一つの法則を出ない、即ち、田を河の如くに渡るとか、糞尿《ふんにょう》のために入って風呂《ふろ》をつかうような事をするとか、馬糞を牡丹餅《ぼたもち》として食うとか、皆同一規である。これは自己の智識記憶がその暗示となって、それをしなくてはならなくなってしまうからの事である。
其処《そこ》に折よく第三者が来て、「彼奴《あいつ》は狐に化かされている」といって、背中をどやしてくれると即ち催眠状態が醒《さ》めるのである。
狐つきはやはり一種の一時的狂気であるが、狐に化かされるのよりは永続的で、また催眠状態ではなく本当に気がちがうのである。
ただ普通の狂気と異《ちが》うのは、その人の狂気前に見聞き
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