の味は、へんに生きたようなきびのわるいところにある。短身で、頭がひどく大きく、色は白く、口があかい。こういう奴はどこかにいそうな感じがある。
 一体目というものはミスチックなものだ、近代フランス美術界[#「美術界」に丸傍点]で名うて[#「名うて」に丸傍点]の、ルドンも一時|盛《さかん》に目の玉をかいたものだ。大きな目の玉だけが、空中に太陽のように輝いている図などもあったが相当にミスチックなへんな夢のような感じがとらえてあった。彼は一つ目をもっと端明に、エキスプレスして表現したものだといえる。
 しかし東洋の一つ目の方がどうもリアリスチックでへんに味が濃く、きみが悪いと思う。

     日本妖怪の病的感

 日本妖怪の感じは概して病的である、前項にちょっと一つ目小僧の感じが奇形児に似ている事をかいたが、古い画巻《えまき》の中に図の如き妖怪を描いてあるのを江馬務《えまつとむ》氏の著の中にみた事がある。これらは全然アルコールづけの奇形児である。
[#挿絵(fig46521_03.png)入る]
 この事は一見古人が、妖怪を表現するために、自分のみた病人や奇形児からヒントを得てその形をかりたというようにも考えられるが私の考としてはそれは少し概念的な考え方だと思う。勿論そういう点もあろうが、私にいわすと、きみ悪いものを描こうとするとどうしても「病人」の感じとなり、デカダンスが形をとろうとすればどうしても、この世に現在する生存上のデカダンス、即ち、病気とか、奇形とか不具とかの形而《けいじ》と一致して来る。それが一つの形而的法則であるという風に思える。
 日本妖怪の味は、生きものの、きみ悪さというものを生かしている。人は美人の髪をみて甚だ美くしいと思い、その腕をみてはなやましくも思うだろうが、もし、如何に美人のでも、髪が切って落ちていたり、腕や足が離れてそれだけあったりしたら正にきみの悪いものである。離れて落ちていないでも、ただ腕や、足というものなどだけじっとみているとへんに生きもののきみ悪さがある。そのきみの悪さを日本妖怪の作者は掴《つか》んでいるのである。
 壁から手の出る話は『旧約聖書』にもあるが、日本の便所や天井から出る手は正に凄い。例の『四谷《よつや》怪談』では御岩《おいわ》様の幽霊は概念的作品であまり凄くない。凄くしようという意図の方が凄さの実想より先に見えるからだ
前へ 次へ
全13ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 劉生 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング